2014年10月26日      聖霊降臨後第20主日(A年)

 

司祭 エッサイ 矢萩新一

「十字架の愛がだいじな掟」【マタイによる福音書第22章34節−46】

 聖書時代のユダヤには、実に600を越える律法があり、事細かな解説書まであったそうです。その律法を専門に勉強した律法学者からの「どの掟がもっとも大切でしょうか」という意地悪な質問に対し、イエスさまはただ一言、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。同じように、隣人を自分のように愛しなさい」がもっとも重要な掟だと答えられました。「神さまを愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」、この両方がなければ無意味であることを示されました。
 「神さまを愛することと隣人を愛すること」は一見簡単で当たり前のように思えますが、常に意識していなければ忘れてしまいそうになります。私たちは、隣人も自分と同じように誰かから愛され、大切にされるべき存在であること知っていながら、やはり自分自身が一番大切に思え、身近な家族でさえ裏切ってしまうことがありますし、本当に大切にすべきことを見失って後悔の念にさいなまれることもあります。
 イエスさまは、友のない人、罪人、人々から避けられている人の傍に寄り添って歩まれ、私たちの罪の為に十字架にかかって死んで下さいました。私たちキリスト者の信仰の営みや日々の歩みは、このイエスさまの十字架の愛に基づいています。自分自身を大切にしようとする心や家族を愛する心をすべての人に向けなさい、自分を愛するように隣人を大切にしなさいというイエスさまの教えを、頭では理解していてもなかなか実行に移せない私たち、裏切り続けてしまう私たちであっても、神さまは愛し続けて下さいます。そんな「神さまの愛を受け取った者として歩む」、この単純さの中に生きられればと思います。
 たとえ社会からつまはじきにされても、周りの意見と異なることがあったとしても、人から変わり者だと後ろ指を指されることがあっても、ある意味、孤独に愛を貫き通したイエスさまの生き様をいつも心に留めていたいと思います。そして、イエスさまのその大胆さに驚かされ、その鋭さに気付かされ、素直に方向転換して歩める者であり続けられれば素敵だと思います。