2014年9月28日      聖霊降臨後第16主日(A年)

 

司祭 サムエル 奥 晋一郎

 今回は28日の福音書に選ばれているマタイ21:28−32、「二人の息子のたとえ」を見てみましょう。イエスさまは弟子たちと一緒にユダヤ北部のガリラヤ地方から、南部の首都エルサレムに入られ、神殿の境内で人々に教えておられました。その時に、当時のユダヤの政治的宗教的支配者階級であった祭司長や民の長老に対して、イエスさまがお話された箇所です。
 ある人に二人の息子がいました。父は兄にぶどう園に行って働くように伝えます。兄は「いやです」、と答えましたが後に考え直して、ぶどう園に出かけました。一方、父は弟にも同じように言います。弟は「承知しました」と答えましたが、ぶどう園に出かけませんでした。このたとえ話の後で、イエスさまは祭司長や民の長老に対して、この2人のうちでどちらが父の望み通りにしたか、と質問します。彼らは兄の方ですと答えます。
 その後、イエスさまは祭司長や民の長老に言います。あなたたちよりもあなたたちが罪人と定めている徴税人や娼婦たちの方が、神様の支配が及ぶ場所、神様の救い、神様の恵みにあずかれる場所である神の国に入るだろうと。さらにイエスさまはその理由として、洗礼者ヨハネがこの世に登場して、これまでの行いを悔い改めて、主である神様を信じることによってのみ救われる義の道を示したのに、祭司長や民の長老たちは信じることはせずに、徴税人や娼婦は信じたからだと。そして、祭司長や民の長老たちはその様子を見ても、後で考え直そうとしなかったからだと。上記のことから「二人の息子のたとえ」に登場する父は神様、兄は徴税人や娼婦、弟は祭司長や民の長老であることがわかります。
この箇所に登場する、徴税人や娼婦はヨハネに出合う前の自己中心的な行いを悔やんでいたことでしょう。悔やんだだけの状態にとどまっていることによって、何の希望も見いだせず、絶望的な状況であったことでしょう。しかし、彼らは洗礼者ヨハネに出会いこれまでの行いを考え直して、主である神様を信じることによって救われる義の道を示され、心から神様を信じる者へと変わることができたのでした。
 わたしたちもこの箇所に登場する徴税人や娼婦とは全く同じ状況ではないにしても、自己中心的な行いを悔やみ、落ち込んでしまうことがあるかもしれません。さらに、何の希望も見いだせず、絶望的な状況になってしまうことがあるかもしれません。
 しかし、そんな状況になったとしても、イエスさまは徴税人や娼婦が洗礼者ヨハネに出会って、主である神様を信じたように、わたしたちも再びイエスさまに出合って、これまでの行いを考え直して、心を再び神様に、イエスさまに向けるように変わることができるようにと、この聖書の箇所を通して言ってくださっています。そのために、わたしたちはこれからも教会に集い、礼拝をおささげしたいと思います。