2014年8月31日      聖霊降臨後第12主日(A年)

 

司祭 アンナ 三木メイ

  「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)
 
 この言葉は、イエスが弟子たちに語られたものとして書かれています。とても厳しい言葉です。イエスはこの時、自分はこれから必ずエルサレムで多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する、と弟子たちに初めて打ち明けたのでした。それは、弟子たちにとって全く予想外の恐ろしい未来の予告だったに違いありません。ペトロはイエスさまに「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめました。そのペトロに対して「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている」と、イエスはものすごくはっきりと厳しく叱っています。
 実はこの場面の直前に、ペトロは、イエスさまに「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をしています。その言葉にはイエスは、「あなたは幸いだ、あなたにそのことを現したのは、人間ではなく、神さまだ」と言って彼を祝福しているのです。ところが、その直後にこのペトロが心に抱いていたメシア=救い主のイメージは、実は神さまから与えられたものではなくて、人間的な視点から思い描いていたメシアだったことが明白になってしまったのです。当時のユダヤの社会では、神から遣わされるメシアの登場を待望する信仰が、イエスの生誕前からありました。それは、かつての偉大なダビデ王のように独立した王国を再興してくれる、この世で輝かしい成功をおさめる強くたくましい指導者のイメージでした。ペトロが抱いたイメージがそれと同じであったかは不明ですが、少なくとも最終的には人々から賞賛されて輝かしい神の栄光をお受けになる方だ、と信じていたのではないでしょうか。ですから、これから殺されるのだ、というイエスの絶望的な未来の予告を受け入れることができなかったのです。
 「わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」主なる神からの使命を受けて人々の救いのために働くことは、必ずしも周りの人々から賞賛される輝かしい未来に結びつくとは限りません。むしろ、理解されず苦しめられることも多いことを聖書は語り伝えています。それでも、あなたは主イエスに従って十字架の道を歩むことを選びとることができるか、という問いかけが、この言葉には含まれています。
 キリスト教文学作品として有名なものの一つに、三浦綾子著『塩狩峠』があります。最初はキリスト教を毛嫌いしていた主人公が、その人生のなかでさまざまな人々と出会いながら、自らの生き方を模索していくうちにキリスト者となり、そしてもうすぐ愛する人と結婚するという時に、列車事故に遭遇します。その時、彼は自ら命を線路の上に投げ出して他の人々の命を救うという選択をしました。これは、実話を基にして書かれた小説です。このなかで主人公は、日頃から聖書の言葉を一つでも実行できるかどうか、悩み葛藤しつつ生活していたことが描かれています。ある学生は、この作品の読書感想文にこう書いています。
 「聖書の言葉を徹底的に実行することで、自分があるべき姿とかけ離れていることを知る、ということに驚いた。私は、聖書の言葉を正確に実行できる人が信仰深いと思っていたが、そうではなく、実行しようと努力しながらも、自分の至らなさを知っている者だけが傲慢にならず、謙虚な生き方ができる、と思った。犠牲の大きさよりも、犠牲になってでも相手のことを思いやれるか、というところに愛がある、と考えた。」
 主イエス・キリストに従って十字架を背負って歩む、その言葉どおりに生きるということは、あなたにとっては何を意味するのでしょうか。それぞれの十字架を負って、人間的な自己中心の思い煩いを捨てて、謙虚な想いをもって努力し、愛をもって歩み続けましょう。