2014年8月24日      聖霊降臨後第11主日(A年)

 

司祭 ヨハネ 黒田 裕

わたしを何者だと言うのか【マタ16・13−20】

本日の福音書でいちばん注目したいのは「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(15節)です。相手をどう呼ぶか、というのはその人と相手との関係を表します。その問いを発した人(ここではイエスさま)と受け取る側との関係を問うていることになります。
ところで、あるキリスト教雑誌に掲載されていたエッセイで「愛とは、相手を定義できること」とありました。愛する相手についてあまり言葉にしたがらない日本社会では、あえて相手の良いところや好きなところを言葉にしてみるのも、二人の関係を見つめ直すうえでは有益かもしれません。こうした意味で、今回のイエスさまの弟子たちに対する問いは、人間の神に対する関係、もっと言えば、愛を問うている、と言えるのではないでしょうか。もっと正確にいえばそれは、イエスさまが人間を愛したその愛を、神さまが人間を愛したその愛を、あなたがたはどう受け止めるのか、どう応答するのか、という問いでもあります。そして、この問いに関しては、フィリポ・カイサリアという場所も象徴的です。この土地は異教的な様々な神々の要素が存在する場所でした。その意味では、多様な価値観や思想に取り囲まれた日本社会に生きる私たちの状況と少し似ているかもしれません。こうした状況のなかイエスさまがあのように問われたのです。その問いは、イエスさまを通してなされた人間に対する神さまの愛の業を私たちがどう受け取るのかという問いです。たとえ宗教という装いをしていなくても私たちの人生を左右する様々な価値観や「誘惑」があるけれども、そうした中で私たちが何を本当の救い主とするか、という課題でもあります。
とはいえ、テレビのチャンネルを合わせるように自由に私たちがそれをセレクトできるというものでもありません。肝心な点は、17節「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」です。つねに先に来るのは、神さまが私たちを愛している、その現実なのです。そこに気づくことが、イエスさまをどう呼ぶかにつながってくるのではないでしょうか。私がイエスさま・神さまを愛しているから、ここ教会に集まっているというよりも、神さまが私たちを愛し、私たちを生かしてくださっているから、私たちは教会に集まり共に感謝と賛美をささげているのです。その順序を取り違えないようにしたいと思います。
私たちは根底的に、人間を越える存在によって私が受け容れられた、生かされている、ということに、今日は皆さんといっしょに思いを馳せたいと思います。だからこそ、こうして私たちはあの方を神と呼び、救い主と告白し、感謝と賛美をささげているのです。