司祭 ヨハネ 古賀久幸
「必死の思いこそが」【マタイによる福音書15章21−28】
わたしどもの2番目の子どもは生来の強いアトピー体質でつれあいは授乳のために涙ぐましいほどの厳しい食事制限をしていました。ある夜中ふと目を覚ますと抱いた赤ん坊のほっぺたを指で撫でながらつれあいが涙を流しているではありませんか。その胸中を思うと母親の愛の深さを尊敬と共にしみじみ感じました。爆撃で負傷した子どもを抱きかかえて助けを求めるガザの母親。明らかに栄養状態のよくないぐったりした子を一生懸命励ましているアフリカの母親・・悲しいかな今も母親たちの叫びは世界に絶えることはありません。
聖書の中にも母親の叫びがたくさん刻まれています。「私の娘を助けてください!」。このカナン人の母親にとって癒してくれる人(イエス様)が敵対しているユダヤ人であろうがなかろうがどうでもよかったのです。無視されようが、弟子たちから嫌な顔をされようが、イエス様から拒否されようが、病いに苦しむ娘がすこしでも楽になり助かるため叫び続け一行の後を追ったのでした。後ろからいくらお願いしてもだめだと分かった母親はついにイエス様の前に体を投げ出し、とうとうイエス様の歩みを止めてしまったのです。イエス様の癒しと憐れみをもとめるその心情を「小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです。」と実に機知にとんだ言葉で訴えました。そしてその言葉がイエス様の心をゆりうごかします。イエス様はこの母親の信仰を立派だと言われ彼女の願いが実現することを保証されました。
この出来事がイエス様と当時の正統ユダヤ教と言われていた人々との悶着の後に起こったと聖書が書き記しているところに深い意味があります。正統ユダヤ教の人々はイエス様の弟子たちが律法の規定通り食前に手を洗わないことを非難しました。これに対して人間の道徳や昔からの言い伝えを守ることを信仰深さを測る物差しにしているとイエス様は鋭く見抜かれ批判されたのです。イエス様とユダヤ教正統派の間に緊張が走りました。そして、この直後に娘の癒しを必死に願う異邦人の母親が先を急がれるイエス様の前に現れるのです。なんと鮮やか対比でしょうか。正統ユダヤ教の人々の任ずる信仰=道徳主義は善悪を自分の力で判断し、あらゆる過ちから自分で自分の身を守ることを自分に要求するものでした。この態度が極端になると神も神の恵みもいらなくなってしまうのです。イエス様が認められる信仰とは自分の愛するもののためにひたすらイエス様の恵みを求め続ける情熱そのものであることをこの女性を通して学ぶことができるのです。