2014年7月20日      聖霊降臨後第6主日(A年)

 

司祭 サムエル 門脇光禅

「毒麦のたとえ」【マタイによる福音書13:24〜30,36〜43】

 マタイによる福音書第13章はイエスさまがたとえをもって福音を語る有名な箇所です。種まきの譬えに始まり、毒麦、からし種、パンのたとえ、次いで毒麦の譬の説明、宝を隠している畑、真珠、海と海に下ろされた網などが続いていきます。
 本日は先主日の種蒔きに続き、毒麦のたとえです。毒麦はパレスチナ地方では当時農夫にとって頭の痛い問題ではあったようです。これを取り除くのは大変な苦労だったようです。毒麦は「ほそむぎ」と呼ばれる雑草で若い苗の間はほとんど麦と見分けがつかないほどよく似ていて穂が出て初めて通常の麦と相違が分かるのです。ところがその頃になると麦と毒麦の根が絡み合っていて毒麦を抜き取ればよい麦まで抜けてしまうのです。
 ですから収穫まで待ってより分けるのです。毒麦というだけあって「ほそむぎ」の穀粒は軽度ではあるけれど体には有害で、めまい、吐き気、しびれをもたらします。少しでも穀物に混ざるとにがくて、いやな味がするのです。他の穀物に混ざっている場合は製粉する前に大型の皿の上で脱穀後取り出す作業が大変でした。色が麦と違っていたので苗のときは無理でも最後に丹念により分けられていました。
 さて、このたとえ話大きな教訓を含んでいます。第1に世界はいつも良い種を滅ぼそうと待ち構える悪意の力があるということです。私たちはそのことを警戒すべきなのです。
 第2に神の国の内にいる者と外にいるものとの区別がつけがたいということです。私たちはすぐに善人悪人とレッテルをつけてしまうことがあります。
 第3に急いで裁いてはいけないということです。早く毒麦を取り除きたいかもしれませんが麦が一緒に抜かれてしまうから刈り入れまで待つべきなのです。人は必ず裁きを受けます。しかしそれは、その人の全生涯を通じて行われるものです。大きな過ちを犯しても神の恵みによって残る生涯を美しく生きて償うことも可能なのです。反対に立派な生活をしてきても晩年に罪を犯し一生を台無しにすることもあります。人の一部しか見えないものが人の一生を裁くことはできないのです。
 第4の教えは裁きが最後に必ず来るということです。この世で罪を犯しながらもうまくきりぬけたように見える人にも必ずや裁き公平に行われるということです。新しい神さまの世界が開かれるとき古い世界の不公平は正されるのです。なぜなら私たちの神さまは正義と公平の神さまだからです。
 そして、第5の教えは、裁きと権能を持っているのは、神さまだけということです。神さまだけが善と悪とを識別して、神さまだけが人の全生活と全生涯とを眺めることが出来るからです。人を裁くことが出来るのはまさに神さまだけなのです。
 人を裁くなという忠告と神さまの審判の日は必ず来るという警告の箇所といえます。
                                                        主に感謝。