2014年6月8日      聖霊降臨日(A年)

 

司祭 ミカエル 藤原健久

 イエス様は弟子たちに言われました。「あなた方に平和があるように。」この言葉は、二つの意味に解釈できます。一つは、神様の祝福を祈る言葉。神様に守られ、平和の内に生きてゆくことができますように、という祝福の言葉。もう一つは、日常の挨拶です。ヘブライ語では、日常の挨拶に「平和」と言う言葉が用いられます。「平和」に「朝」で「おはよう」。「平和」に「夜」で「こんばんは」というように。イエス様がどちらの意味で用いられたにせよ、この言葉は弟子たちにとって驚きの言葉でした。なぜならこの時、弟子たちは激しい自責の念におそわれていたからです。この三日前にイエス様は十字架につけられました。そのとき弟子たちはイエス様を見捨ててしまったのです。それまでは「イエス様を命がけで守ります。」「いざとなれば一緒に死にます」などと、勇ましいことを言っていたのに、実際にイエス様が逮捕される時には守ることができず、裁判の時には弟子であることを否定し、十字架の時にはこっそり隠れて表に出ることさえもできなかったのです。弟子たちは、自分たちがいかに意気地なしで、卑怯で、そしていかに罪深いかを思い知らされたのです。弟子たちはユダヤ人からの迫害を恐れて家の中に引きこもっていましたが、それとともに、もしかしたらそれ以上に、自責の念に打ちのめされ、家の戸と共に、自分たちの心を閉ざしていたのです。
 そのような中で、「イエス様が復活された」という知らせは、弟子たちにとって救いにはなりませんでした。もし復活されたイエス様が自分たちの元に来てくださればどうなるか。イエス様が言われるのは次の言葉でしょう。「なぜ私を見捨てた!私はおまえたちに殺された!決して赦さない!」罪を責め、恨みをぶつける言葉こそ、弟子たちにとってふさわしいものだったのです。
 ところがイエス様は、全く違う言葉を語られました。「あなた方に平和があるように。」祝福の言葉であれ、日常の挨拶であれ、弟子たちの予想とは正反対の言葉でした。それは今までの愛の関係を持続し、罪を赦し、祝福する言葉でした。過去の罪を問うよりも、これからの歩みに押し出してくれる言葉でした。この言葉によって、弟子たちは、生まれ変わることができました。その後弟子たちは宣教の生涯を送ることになります。
 イエス様はこの言葉と共に、息を吹きかけ、聖霊を降しました。聖霊は、罪を赦し、これからの歩みを祝福する神様の霊です。教会は聖霊によって作られ、聖霊によって納められています。罪の赦しと祝福、それが教会の使命です。