2014年6月1日      復活節第7主日(昇天後主日)(A年)

 

執事 アントニオ 出口 崇

「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」

 イエスさまは、残された弟子たちが一つになることを祈っています。
 「一つになる」、教会ではよく言われる言葉ではないでしょうか。
 私たちはそれぞれ違うところがあるけれども、イエス様によって一つに結ばれている。
 先週の福音書の「わたしはまことのぶどうの木」や、聖餐式の中で唱える「わたしたちは多くいても、一つの体です」でもあるように、イエス様に連なることによって、教会に連なることによって私たちは、一つの体である。同じ信仰を持った一つの共同体である。ということが言われています。

 しかし、誤解を招くかもしれませんが、「私たちの信仰」は、決して同じものではありません。私たちが「神様」「イエス様」と祈るとき、その人それぞれの「神様」「イエス様」のイメージがあるのではないでしょうか。
 もちろん、あまりにかけ離れていると「それはどこの神様ですか?」となってしまいますが、全く同じものではないと思います。それは、人との違いだけではなく、自分自身を振り返れば、「イエス様」と喜びを持って祈れる時もあれば、その言葉を口に出来ない、祈ることが出来ない時もある。あやふやな信仰であることを思います。

 「一つになる」ということは、イエス様を信じている、我々の信仰というあやふやなものによって「一つ」というのではなく、イエスさまが、従ってきた人たちのために祈ってくださった。神様にとりなしていただいた者として、私たちは「同じ存在」「一つ」となっているのではないでしょうか。

 イエス様はご自分に従っている人たちだけではく、「全ての人たち」のために祈られました。
 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、全ての人を一つにしてください(ヨハ17:21)」。