司祭 マーク シュタール
。。。うしろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思うって言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えて下さい。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア!」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ!」と言った。「先生」という意味である。(ヨハネによる福音書20:14b〜16)
京都教区の皆さん、イースターおめでとうございます!ご承知の通り、イースターはカレンダー上の一日ではなく、神学的な季節ですので、聖霊降臨日までは、会ったときに「イースターおめでとう!」と挨拶をかわすことはおかしいことではありません。そのことによって、わたしたちは今日、イエス・キリストが死に打ち勝ったことを記念するだけでなく、弟子たちや初期の信者たちと同じように、新しい命の誕生に参加することにもなるのです。復活は2,000年頃前のある輝かしい日曜日に起きたことではありません。おそらく、神様が長い間温めていた考えだったのでしょう。わたしたちは、身近でも同じようなことを体験します。例えば、自然の営みの中に―冬に象徴される死の後に訪れる春の息吹、時に劇的に、時に穏やかに春は訪れますが、春は新しい命に溢れています。木々が芽吹き、鳥がさえずり、お日様のぬくもりを感じます。
自然の営みだけに驚くなら、わたしたちは、神様の創造主としての御手に気がつかないかも知れません。今日の福音書を見て、考えると、その鍵は復活を違った形で見出すことにあります。わたしたちもキリスト教の弟子として歩むとき、神様の復活は様々な形で表れることを心に留めたいと思います。神様は契約(例:一つの心、一つの道)を復活させ。暴君を回心させ(例:サウロがパウロになった)そして死からよみがえりました(例:マグダラのマリアが弟子に伝えた)。従って、わたしたちが神様の御心を行うように呼ばれるとき、きっと神様はわたしたちの背中を押してくれているはずです。わたしたちが神様の呼びかけに背を向けること、あるいは中途半端な気持で答えることも出来ますが、わたしたちが得るものも敗北感やいらだちでしょう。でも、心を尽くして、御心に従い、神様に結果を委ねる者でありたいものです。