2014年4月13日      復活前主日(A年)

 

司祭 クレメント 大岡 創

「わが神 わが神 なぜわたしをお見捨てになったのですか」【マタイ27:1−54】

 いよいよ聖週を迎えイエスさまの受難によって成し遂げられた最も大事な救いのみ業を追憶したいと思います。マタイ福音書の受難物語の特徴はイエスさまが全く孤独の苦しみを担っておられることを描くところにあります。
 ユダは銀貨30枚で祭司長たちにイエスさまを売り渡し、裏切りました。ペトロは「お前はあの男と仲間だ」と指摘されたとき「そんな人は知らない」と否認しました。他の弟子たちも皆、我先にと同じように言ったのです。十字架にイエスさまがつけられたときには皆逃げてしまい十字架に留まるものは誰一人いませんでした。誰も最後までイエスさまについていこうとはしませんでした。イエスさまの苦しみを分り、受け止めようとする人もおりませんでした。ギリギリに追い詰められたイエスの姿がマタイ福音書の受難のイエスさまです。
 十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでいるイエスさまは、全くの孤独の中にありました。祭司長たちが「今すぐ十字架から降りるがよい」と罵った言葉で孤独に中にあったイエスさまにとって最後の誘惑でありました。
 しかし、彼は人々を力づくで従わせるようなことはなさいませんでした。孤独と絶望の中で「わが神・・なぜわたしを・・・」と叫び声を挙げるだけでした。しかし、神さまに向かって叫ぶことをやめようとはしませんでした。「わが神わが神」と呼ばわって神さまがみ心に従って振舞って下さることに徹底して信頼し続けたのでありました。人の目から見ればイエスさまのなされたことは最も惨めな最期を迎えようとしています。しかし、その苦しみの中に神さまのみ心にすべてを委ねられたのです。このように、孤独と絶望に追い詰められながらも、どこまでも主に寄り頼む姿が描かれています。孤独の中に死んでいくという運命を御自身の身に引き受けられたのです。
 私たちも、時として自分の望まない苦しみや悩みに直面することがあります。苦しみ悩むこと自体に価値があるのではありません。そのような苦しみの中にある時、イエスさまもまた十字架の苦しみを経験されたことを思い起こしたいと思います。私たちの神さまは遥か遠くにいて、人間の悩みや苦しみに目を塞いで見ようとしない方ではないはずです。
 人からも神からも見捨てられたかと思われる絶望的な状況の中で、イエスさまが共に苦しみ共に悩んでくださるのです。そしてその苦しみがそのまま終わるのでなく、そこから新たな命への道を用意して下さったのがイエスさまの十字架と復活の出来事です。そのことに思いを馳せたいと思います。