司祭 バルトロマイ 三浦恒久
永遠の命に至る水【ヨハネによる福音書4:5〜26、39〜42】
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ4:14)
上記のイエスの言葉は、わたしたちにとって福音です。この福音を素直な心で受け入れる時、わたしたちは永遠の命に至ることができます。
イエスは「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われました。この言葉には深い意味がありました。
イエスの十字架の場面を思い出してください。イエスは十字架の上で何と言われたでしょうか。聖書は次のように伝えています。
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスはこのぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:28〜30)
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われたイエスは、この場面では「渇く」を言われています。何だか矛盾するように思われます。しかし、そうではありません。そこには深い意味がありました。イエスは人の痛みをその身に負われたのです。しかも、徹底的に・・・。イエスは喉の渇きを覚えながら、さらに海綿に含ませた酸いぶどう酒をお受けになったではありませんか!
ここに、イエスの大いなる愛が示されています。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」とは、イエスの十字架、その大いなる愛を指しています。そして、その愛を信じる時、人は永遠の命に至ることができるのです。それはイエスが「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:17)と言われた通りです。
春がまだなのに、夏のことを言うのは気が早すぎるのですが、夏になると教会の庭は蝉時雨でにぎやかになります。蝉はある高さの気温に達すると土の中から這い出てきます。そして、脱皮して成虫になります。しかし、脱皮できずに一生を終える蝉もいます。
蝉にとって脱皮は大仕事です。木の枝や葉っぱにしがみつき、時間をかけて、ゆっくりと脱皮します。脱皮の瞬間を見たことがあるでしょうか。最初背中が割れ、やがてうす緑の頭部が現れ、次第に全体が、まるで何かの木の芽のように出てくるのです。空気に触れると、色が変化し、全身が硬さをおび、縮れていた羽根がアイロンをかけたように伸び、透明感が増してきます。こうして蝉は脱皮を終え、成虫になるのです。
人が永遠の命に至るとは、この蝉の脱皮に似ています。人は自己中心性という固い殻をかぶっています。この殻から脱皮するのは至難の業です。蝉が脱皮を決意できるのは、空気(風)の力を知っているからです。空気(風)が己を変えてくれるのだと蝉は信じているからです。人もまた、これと同じです。神の愛が己を包んでくださっていると信じることができた時、人は脱皮を決意できるのです。そして、蝉が空気(風)の力に身を任せるように、人もまた神の愛に身を任せて、生きることができるようにされるのです。