2014年3月2日      大斎節前主日(A年)

 

司祭 ヨハネ 黒田 裕

「克己」ということ【マタイ17:1−9】

 今週から、教会の暦は「大斎節」に入っていきます。「大斎克己献金」というように、この時期は「克己」の期節ともいえます。しかし、キリスト教でいう「克己」とは、自分に打ち克って自分を高めるというよりもむしろ、神さまとの関係においての「克己」ということではないでしょうか

 考えてみますと、イエスさまご自身が、人間としての自分の努力や能力で自己を乗り越えたわけではなかったことに思い至ります。というのも、逮捕を目前にしたイエスさまはゲッセマネで「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタ26:39)と祈っておられるからです。他ならぬイエスさまも、神さまとの関係において人間としての自己を乗り越えているのです。だからこそイエスさまは十字架へと進むことができたのでした。

 そして、十字架と復活のイエスさまを仰ぎみるとき、「克己」とは、自分の意志の力によって、自分のためにする禁欲とは異なって、わたしたち一人一人が神さまから与えられている命や才能、いま与えられているものを感謝してそれを他者のために用いること、そして、それによって他の人々と喜びを分かち合うということに気づかされます。

 こう思いましたのは、なぜ、大斎を目前にした今日、福音書にこの箇所が選ばれているのか、ということについて思いを巡らせる中からでした。そして、大斎の直前に教会がこの箇所に耳を傾けるその理由は、復活の祝いに備えて、もう一度あらためてイエスさまが神の子であることを強く意識しよう、ということではないかと思うのです。その意味で大斎節は、もう一度わたしたちが信じている方がどのような方であるのかを確認する期節、ということができます。もしそれがなければ、大斎節の「慎み」も「克己」ということも、自分の、自分による、自分のための努力となってしまうのではないでしょうか。

 わたし自身、普段自分を取り巻いている多くの仕事のなかで、これらのことを忘れそうになります。そのことは、多かれ少なかれ誰しも同じではないでしょうか。だからこそ、この期節にあって、わたしたちは、何のために、誰のためにささげられている生活かを、あらためて思い巡らしたいと思います。それはまた、イエスさまが神の子であること、わたしたちの主であること、わたしたちの神であること―をもう一度確認することでもあります。そして何よりも、自分が神さまから今生かされていることをおぼえてまずは感謝したいと思います。神さまとの関係において、囚われていた自分自身から開放されること、自分を乗り越えられることに気づきたいと思います。

 大斎節が始まるにあたって、イエスさまは神の子、わたしたちの主、わたしたちの神であるという、当たり前に思えることを、ご一緒に、もう一度深く心のなかで噛みしめたいと思います。