2014年2月23日      顕現後第7主日(A年)

 

主教 ステパノ 高地 敬

「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」

 聖書がとっつきにくいのは、病気の人がいやされたり死人が生き返ったり、水がぶどう酒に変わる奇跡やわずかのパンで大勢の人が満腹になるなどの奇跡が書かれているだけでなく、イエス様の教えがこのように極端に厳しいからでしょう。相手から暴力的に攻められたら、私たちの反応は、それ以上打たれないように身構えるか、反撃するかだと思います。「左の頬をも」というのは、暴力を防ぐことさえ許さない厳しすぎる命令のようです。
 世界では争いや戦争が絶えません。中東のシリアではもう3年も内戦が続き、1千万人以上の人びとが難民となっていると伝えられています。イスラムの戦闘的ないくつかのグループが政府軍に抵抗し、政府軍は無差別的な爆撃を繰り返しています。和平交渉の席には、反政府の代表者がついているわけではないので、会議の結果にみんなが従うわけでもなく、いつまでこの状況が続くのか全く見通しが立っていないようです。このような中東の情勢から、私たちはイスラム教に、かなり戦闘的な宗教だというイメージを持っています。イスラム教でも読まれている旧約聖書に書いてある「目には目を」を実践しているのかとさえ思ってしまいます。
 イスラム教の「ジハード」という言葉は、「聖戦」と訳されますが、本来は「力を尽くして努力すること」を意味しているようです。そのうち「大ジハード」は創造主のみ心に従って自己変革することで、「小ジハード」はイスラム法に基づく防衛のことだとのことです。イスラム教は、正に平和を愛する信仰であると言われます。「ジハード」によって、攻撃された時の自己防衛が正当化されているというより、自らを常に省みて、他者を尊重しているか問い続け、平和の実現のために努力する。互いに攻め合うようなことがないように、絶え間ない努力が求められているのでしょう。
 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」それほどまでに、あなた自身を変えて、神様の平和の実現に向けて努力するように、私たちは求められています。それも、左の頬を出すどころか、私たちのために自分自身を差し出された方から促されておりました。ほんの少しずつではあっても、「左の頬を向ける」意味を感じ取っていくことができればと思います。