2014年2月16日      顕現後第6主日(A年)

 

司祭 ヨハネ 古賀久幸

イエス様の喜びの中に招かれて【ルカによる福音書5章21-24、27-30、33-37】

 「神様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯すものでなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」(ルカ18:11)徴税人を横目で眺め、ファリサイ派の人は心の中でこうつぶやいた。
 わたしの故郷九州は酒呑みには比較的寛大なところだが近所で名うての酒乱がいた。下戸だった祖父は眉をしかめながら「あんな人間にだけはなるな」といつも口にしていた。そのおじさんは生活ぶりから普通の大人が受ける尊敬というものとはおよそ縁遠い評価をされていた。長じたわたしは祖父の期待を裏切り酒で幾度か失敗もし依存症が深刻で危険な病気であることを学んだ。それでも酒で底つきをしている人を見て「俺はあんな奴と一緒じゃない。」とつぶやき優越感にひたる自分がいる。
 「人を殺した者は裁きを受ける」(ルカ5:21)。凄惨な殺人事件のニュースを耳にするたびこんな奴は極刑だと思う。そして自分はこのような人間でないことに安堵する。しかし、「兄弟にばかと言う者は最高法院に引き渡され、愚か者と言う者は火の地獄に投げ込まれる」「みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でもすでに心の中でその女を犯したのである」(ルカ15:22)。イエス様の容赦ない激しい言葉は、自分で周りに張り巡らせていた自己正当化の結界を粉々に砕いてしまわれるときがある。「その男はあなただ」(サムエル下12:7) と鼻さきにおのれの罪まみれの姿が鏡に映すかのようにつきつけられる。読み上げられる罪状に耳をふさぎ、叫びをあげて地面をのたうちまわる。「助けてください。なんとか救ってください」と苦しさの中から叫び続けている。イエス様はときとしてわたしたちをとことん追い詰められ苦しませる。
 だからこそイエス様だけが本当の喜びへと導く方であると先達は知っていた。人間の喜びとは、人より金をもっている、学歴がある、自分だけは正しいとか他の人と自分は違うと感じた時にもたらされるものだと思う。そんな喜びと本当の喜びとはなにがどうちがうのだろうか。本当の喜びは、わたしたちが例外なく愚かでもろく、いずれは死ぬものである所に隠されていると魂の遍歴者ナウエンは教えてくれる。人類の一員であるということ。そして友人として、仲間として、旅の道づれとして、他の人々と共にいるという喜びこそが本当のものだと。使徒ヨハネは「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちのうちにありません」(ヨハネ第T1:8)と語った。イエス様はわたしたちの本当の姿こそ罪人であると追い詰められる。しかし、その罪人をこそご自身の喜びの中に招いてくださる方であり、インマヌエル(神、われらと共にいます)の方なのである。