2014年2月9日      顕現後第5主日(A年)

 

司祭 ヨシュア 柳原義之

塩気のなくなった塩

 20年ほど前、6人部屋(周りの人はみんな膵臓疾患)の病室に入院していた時のこと、初めての夕食の時間となった。他の5人は当然減塩食で、私は普通食。ご飯の横にたくあんが2切れついていた。その時、「うわ、あんたええなぁ。漬物ついているで」と一人が言うと、皆がベッドサイドにやってきた。病院の超減塩食は、見るからに色もなく味もほぼ素材のままだというから、皆のうらやましさはどれほどだったろうか。
 イスラエルには「死海」と呼ばれる海水の6倍の塩分の濃い湖があり、その周囲は岩塩を採り、今も製塩をしているという。私たちの日常の生活ではビンに入った塩が当たり前で、塩気の無い塩というのは想像できないが、不純物の混じった岩塩から塩気だけが抜けると、確かに捨てるもの以外には残らないように思う。旧約聖書では塩も神殿の供え物に加えられているので、大切なものであったようだ。
 マルコ9章50節には「自分自身のうちに塩を持ちなさい。そして互いに平和に過ごしなさい」というイエスの言葉があるので、塩は味をつけるものと同時に物を柔らかくする作用があり、それを人との間で用いなさいということだろう。反対に塩が効きすぎるととても食べられたものではなく、人に当てはめれば人当たりの強い人間で、交わりの中ではたいへん迷惑ということになるかもしれない。
 「あなたがたは地の塩である」とイエスは言われる。適度な塩気で互いにやわらぎ、よりよくこの世に対しての奉仕をし、み言葉を告げる人となれとの意味だろう。塩には防腐効果があるから悪魔からの誘惑にも負けないのかもしれない。同時に「あなたがたは世の光である」と言われる。これも強い光は相手にとって迷惑だし、電池切れ前の懐中電灯のように小さすぎる光では役には立たない。
 自分自身を振り返り、互いにやわらぎ、必要な光を共有できる謙虚さをもつことを勧められている。最近、自分の思いばかりを優先して相手を顧みないところから悲しい事件が続発している。あなたはどんな塩梅ですか?あなたの光の強さはいかがですか?塩気が抜けていませんか?あなたの塩が、光が誰かの役に立ちますように。