司祭 マーク シュタール
イエスは“わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう”と言われて。
【マタイによる福音書4:19】
顕現節はどのキリスト教の季節よりも、symbol、象徴に溢れています。七年前の夏、まもなく出版される話題作の最終号にメディアの注目が集まりました。一番の問題は主人公が最後、果たして生きているのか、死ぬのかということでした。もう7年前に出たので、結論を書いてしまっても良いでしょうか...。わたし自身はそんなことに大騒ぎするのはばからしいと思っていました。一連のシリーズを読み、豊かなキリスト教の知識を持つ作者が書いたということを私は知っていたので答えははっきり分っていました。それは“両方”ということです。実はHarry Potter は死にます。そして復活するのです。驚くべきことではありません。驚くべきことはHarry Potterは全編を通して、顕現節のみ言葉に負けないくらい、キリスト教のsymbolに満ちているということです。たくさんあるけれども、一つの例をあげましょう。
第一巻、“Harry Potterと賢者の石”は悪魔(Voldemort、ヴォルデモートという名前)が石を必死に探す話です。その石は不老不死の霊薬が入っています。その悪魔、Voldemort、は死を恐れているので、手に入れたいのです。HarryはVoldemort を止めようとして、死にそうになります。でも、そこでHarry が知ったことは何でしょうか?命はそれ自体を追い求めるものではないということです。命の価値は自分が選んで決めるもの。楽な選択ではなく、良き選択の結果であると。わたしたちを愛するものは生き続ける。それ自身が死んでも、わたしたちの中に生き続ける。それは愛ゆえに生き続け、その愛は不死身でわたしたちを守り続けるものです。Harry は死ぬ恐れよりも、愛を失うことの方が恐ろしく、それこそが死を意味することを知ります。本の題名にそのsymbol、象徴がはっきり書かれています。Voldemortが求めて止まなかった不老不死の霊薬:それは毎主日、無条件に受けることができます。わたしたちが“聖餐”と呼ぶ、この祭りは救い主イエス・キリストのsymbolです。
顕現節のみ言葉、例えば今日のマタイによる福音書の“人間をとる漁師”で示されるsymbolは言葉以上の含みがあり、イエスの神聖を確認することができます。これらの強い象徴は最初のイメージ以上に深く心に残ります。おそらく、それがHarry Potterのシリーズが大きな反響を呼んだ理由でしょう。でも、もしイエスが神のみ子として明らかになり、正当化された顕現で話が終わったなら、わたしたちは教会に行くことはないでしょう。イエスの顕現が定められた後に起きたことこそが今もキリストが生き続けている光の源です。神のみ子が人の形をとって働かれた。人間イエスの足跡こそが人々に影響を与えた意味は深く、イエスを正当化するのです。そして、顕現節で示されるどんなよりも力強く、二本の木片が形作った、十字架がわたしたちの心を掴んで離さないのです。