司祭 テモテ 宮嶋 眞
「クリスマス後日談」【マタイによる福音書第2章13〜15,19〜23節】
クリスマスに語られる聖書の箇所は、神の子イエス・キリストが生まれた喜びの知らせに満ちています。この世界で祝われるクリスマスもまた美しく、ファンタジックなイメージがあります。最近ではファミリー・クリスマス、恋人たちのクリスマスなど、大切な人と過ごすという大変良いイメージの中にあります。
今回読まれるクリスマスの後日談は、そうした美しいイメージとは程遠いものです。途中省かれている部分には、さらに残酷な出来事が描かれています。イエス・キリストの誕生によって自分の王位が脅かされるのではないかと恐れたユダヤの王ヘロデが、イエスが誕生したと思われるベツレヘム近郊の、2歳以下の男の子を皆殺しにしたという記事です。
キリストの誕生は、喜ばしいメッセージとして受け取られたのではなく、むしろヘロデにとっても、また、殺された赤ちゃんたちの家族にとっても恐怖に満ちた物語となったのです。そして、イエスの家族は、難民となってエジプトへとのがれ、ヘロデ王が死んでからようやく、帰国することができたのです。
ここからは、わたしの想像なのですが、幼いイエスにとってのこの出来事は記憶の外の出来事だったでしょう。しかし両親、とりわけ、母親のマリアにとってはトラウマになるような事件だったに違いありません。「神の子」としてのイエスの出産を引き受けたばかりに、多くの幼児の命が引き替えに犠牲になったのです。
恐らくマリアは、成長していくイエスに、イエス誕生の不思議ないきさつを伝える中で、この虐殺の出来事を恐る恐る語り聞かせたのではなかったでしょうか。イエスにとってもこの話は、一度聞けば決して忘れることのできない物語だったでしょう。自分がこの世に生まれ、生き延びていくために、いかに多くの命が失われたのか。この犠牲に対する償いは、何をもってすればよいのか。深く、深く悩み苦しんだのではないでしょうか。
成人して、当時の平均寿命から言えばそろそろ死を迎えるような年齢になった30歳くらいのある日、イエスは、この苦しみの中から、立ち上がり、人々のために自分の命をささげる歩みを踏みだしたのではないでしょうか。ことは「暴力」によっては決して解決しない。「愛」によってのみ道は開けるというイエスの思いは、その誕生にまでさかのぼることができるような気がします。