司祭 ヨハネ 黒田 裕
人生いたるところに…【マタイ24:37−44】
山頭火の句に「分け入っても 分け入っても 青い山」という作品があります。一見すると新緑の山を旅する心地よさを詠んだように思えます。けれども、以前ある方から教わったのですが、「人生いたるところに青山(せいざん)あり」という句にあるように「青山」とはお墓つまり死に場所を意味するそうです。また他に「人間(じんかん)到る所青山あり」という句もあります。
さて、ここから私は、あるプロテスタントの牧師さんの、「愛には死の匂いがする」という言葉を思い出しました。つまり、イエスさまとの出会いとは、パウロの回心体験がそうであったように、今まで通用していたことが全く通用しないことを突きつけられる体験、その意味で「死」を体験することではないか。持っているものが全て通用しないと分かったとき、つまり「私」が死ぬとき、初めて「愛」は香り出すものなのだ。イエスさまが十字架の死を通してでしか私たちに愛を伝えられなかったように―。
降臨節に入りました。イエスさまのこの世への到来を「待つ」期節です。それは、確かに「終わりの時」(福音書参照)を待つことでもありますが、到来するのが、キリストであるがゆえに「愛」の到来でもあります。旧い時代では、終わりの時は(ノアの箱舟の)洪水でしたが、新たな時代において、圧倒的な力で押し寄せるのは愛なのでした。
そういうわけで、パウロが愛について語る際に「終わりの時」を想定したのは偶然ではありませんでした。パウロ当時の鏡のように、今は「終わりの時」の一部もしくはぼんやりとしたものを見ているに過ぎないのです。聖餐式のパンとぶどう酒も、そうしたものの一つです。聖餐にあずかることは、まさに完全なものの到来の一端を感じ取るものだからです。聖餐はときおり「せいざん」とも発音されます。“人生いたるところに聖餐あり”。私たちは人と人との間に、私たちの人生のうちに、キリストの死を、その復活を、神さまの愛を、見出します。
わたしたちの人生、いたるところに、あるいは、分け入っても分け入っても、死や滅びが垣間見えるかもしれません。しかし、わたしたちキリスト者は、そのようなこの世における死や滅びの向こうに、キリストの死、それゆえに、神さまの愛、さらに神さまの愛が完成する終わりの時を見るのです。
そのことを心に留めながら、後で「感謝聖別」に出て来る「み子が再び来られるまでこの祭りを行います」というお祈りを、人生いたるところに聖餐あり、人生分け入っても分け入っても聖餐あり、というわたしたちキリスト者の人生の歩みとしてとらえ返して、これから続く降臨節の歩みを共に進めていきたいと思います。