司祭 バルナバ 小林 聡
〜塵の上に立つ神を証しする〜【ヨブ記19:23−27】
「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」ヨブ記19:25
ヨブ記には、普遍的な問いと向き合う、普遍的な人間の姿が描かれています。普遍的な問いとは何故この世に不条理なことがあるのかということです。そしてヨブはどこの民族にも属していない、人類すべての存在を表しています。
ヨブはこの世的に敬虔な人物で、その人柄ゆえに大成功を収め、にもかかわらず一つもおごり高ぶることなく、かえって謙遜な態度を示す人物でありました。
そのヨブが悪魔の試みを受けます。そしてその試みを神は許可いたします。
ヨブを襲った悲劇は、物質的な消滅、家族の死でした。ヨブはしかし起こった出来事を呪うことはしませんでした。次にヨブを襲ったものは体を損ねる病でした。朽ち果てる肉体、痛みを伴う病。ヨブはその身体的な苦痛に、自らの死を感じるのでした。
そのヨブに追い打ちをかける友人たちの助言がありました。理不尽な出来事に対して、ヨブに悔い改めよと迫ります。おのれの罪を悔いよと大上段から説教されます。
ヨブは果たして、諭されるべき存在なのでしょうか。愛する家族を失い、自らも病の内にあり痛みと悲しみに打ちのめされるヨブ。
これらの不幸は自らの罪のせいなのか、この不条理は何なのだ。何度も自分を責め、朽ち果て、ただ死の影に怯えるヨブは、しかしここで一つの奇跡を起こします。塵の中に立つ贖い主を証しするのです。
塵は死を意味し、その死から立ち上がる、救い主を見るのです。
数年前、私はある方からお電話を頂きました。約23年前、京都のとある教会で結婚式をあげる予定だったご夫婦で、家族のご病気のため、それが叶わず、しかし教会での礼拝に出席する中で、信仰生活の恵みを垣間見られた方でした。その方のご主人が約10年の闘病生活の中、自らの病を自分の罪のせいだと悔やみ、今痛みと闘いながら、死への恐れに向き合おうとされているというのです。わたしはその方のもとを訪れ、神の愛と救いのしるしとしての洗礼をいたしました。ご本人がそのことを望み、死に打ち勝たれた主イエス・キリストを信じ、主に身を委ねる歩みをされておられました。わたしたちの救い主、贖い主である神さまは、死の中に、塵のただ中に立っておられます。神様はこの世の不条理や諦めを超え、命を私達に注いでくださいます。
聖書は語ります。ヨブが語った告白を、主イエス自らがその身に引き受けたことを。十字架という理不尽、不条理のそのただ中で、塵と化したイエスは、その塵のただ中から、神さまによって立ち上がらされたのです。キリストは死に、キリストは塵の中からよみがえり、キリストは再び来られます、と聖餐式の中で私たちは祈ります。洗礼は、キリストと共に死に、キリストと共によみがえることです。病床で洗礼を受けられたその方はキリストと共によみがえりました。
神さまの恵みにより死では終わらない命に私たちもまた身を委ねていけますように。すべての人が神さまの命の中で生きていけますように。