司祭 パウロ 北山和民
救われるイメージ
しかしザアカイは立ち上がって、主に言った。
イエスは言われた「今日、救いがこの家を訪れた。(ルカ19章1−10)
【イエスの弟子になること】
ルカ福音書はこの後、イエス一向はエルサレム(十字架)に入っていく。直前の(ルカ独自)エピソードとして、この「徴税人ザアカイとの出会い」を提示する。この意味は何?
どんな説教が期待されているのか?
「わたしは財産の半分を貧しい人に施します」と証しし勧める(できたら素晴らしいが)こと以上に大事なこと、素晴らしいことがあると、説教しなければならないと思います。それは、日曜学校で繰り返しこの話が用いられているように、このままイメージ豊かに、徴税人の「業・カルマ・悲しさ」と「にもかかわらず接近するイエス」を語ることです。 ルカはおそらく、このエリコでの出会いによって「真の弟子(立ち会い、見て見ぬふりをしないこと)」を描き、イエス自身が十字架への道を確かめたと言いたかったのでしょう。
【ルカの逆説】
「立ち上がって(スタシス)」から「復活(アナスタシス)」を連想して、今日の福音から「イエスの復活の先取り」と読むのは読み過ぎでしょうか。 ルカは「イエスの十字架」を「歴史の事実」と描くことで、逆説的に「今、21世紀のこの現場にも(新約聖書が書けるほど)かけがえのない出会いが開かれ、それは繰り返される」と「使徒言行録」を記した福音記者です。つまり、イエス(聖霊)とあなたが真心からあいさつを交わし、自分が消滅するような「一期一会の聖餐式」が今ここにあれば、それは今日あなたを永遠の命へと回復させるのです。
【悔い改めとは、分かち合いへの転換】
今日の「徴税人ザアカイ」のように、ルカが投げかける、救いのイメージの多くは、一時の熱情ではなく、「分かち合いへと変わる。変えられつつある」姿です。たとえば「戴いたものは献金で分かち合う」という習慣、センスが救いなのです。イエスと出会うことが先なのか、貧しい人の必要に応える勇気が先なのかは、神様しかわかりません。
以上