2013年10月20日      聖霊降臨後第22主日(C年)

 

執事 ヤコブ 岩田光正

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。(ルカ18:1)

 このたとえを聴く時、私たちキリスト者は、今日という時代を生きる中でしばしば気を落とし時に祈ることにさえ無力を覚えてしまう自分がいることに気づかされます。同時にまた弛まず祈ることの大切さを思い知らされます。
 「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」と「一人のやもめ」。前者は、今で言う正式の裁判官ではなく、当時必要に応じて任務に就く町の有力者であったと考えられています。彼は権力を持つ者であり、しかも神を畏れず人を人とも思わないとあります。他方、後者のやもめは、男性中心社会であった当時、立場的に最も弱い者の代表でした。お金も権力も持たないやもめにとって自分の訴えを裁判官に取り上げてもらうには、ただ執拗に願い出る以外に何の手段もありません。
 この両者を対比する時、前者は昔も今日も変わらない社会の大きな権力構造に、一方、後者は教会に重ね合わせることができると思います。例えば、福島の原子力発電施設の大事故にも関わらず脱原発に移行できない強大な社会権力。そして、原発問題を訴え続けている、特に日本においては少数者でありとても微力な私たち教会。
 行動しても何も変わらない、原発はなくならない、お祈りを続けても空しさばかりを覚えてしまう…時にこのような無力感を抱いてしまうのが私たちの正直な思いではないでしょうか?
 しかし、たとえに登場するやもめは違います。落胆することなく懸命に訴え続ける姿勢が表されています。結果、あの「不正な裁判官」を動かし、自分の訴えを取り上げることになりました。それは裁判官が神を畏れたからではありません。また、やもめに同情したからでもありません。ただ、「うるさくてかなわないから」です。
 さて、足尾鉱毒事件で国家を相手に訴え続けた田中正造が今年、没後100年という節目であり、また福島の原発問題もあって注目を集めているそうです。彼はキリスト教に改宗こそしませんでしたが聖書を愛読し、イエス様の教えに深く影響を受けたそうです。また教会でたびたび演説を行ったことは有名です。彼の訴えはその生涯の間、取り上げられることはありませんでした、しかし、時代を超えて彼の訴えは今日の環境問題について提起した運動の先駆けとして歴史に名を残すことになりました。田中正造以外にも女性の教育・地位向上、人権活動、ハンセン病に関する課題など有名無名に関わらず私たちの先人たちが執拗に訴え続けた結果、今日があります。つまり、訴えは「裁判官」を動かしてきたのです。
 最後、今週の福音でイエス様はたとえ時に空しさを感じようとも失望することなくこのやもめのように「絶えず祈る」べきであることを私たちキリスト者に教えておられます。私たちは「選ばれた者」です。「昼も夜も叫び求める」者の訴えから決して目を背けるはずはありません。神様のご計画の中に、たとえその時間は人間の時間では遅いものに感じられても、必ず速やかに聞き届けてくれるはずです。だから、私たちも弛むことなく祈り続けていきたいものです。殊に福島の原発事故による被災者のことを覚えつつ、そしてこの問題を契機に日本の社会が原発に依存しない安全な社会に変えられていくことを祈りたいものです。