司祭 ヨハネ 石塚秀司
「清められそして癒された人」【ルカによる福音書17章11−19節】
3年前だったと思います。NHKの朝の連続ドラマで「てっぱん」が放映されていて、とても印象に残ったことがあります。主人公は高校3年生の“あかりさん”。鉄工所を経営する父親とお母さん、そして二人の兄との5人家族の中でそれまで幸せに過ごし成長してきたあかりですが、ある日ひょんなことから、実は、自分は養子で両親の実の子ではないことを知ります。18歳なって始めてこのことを知ったあかりは、それからしばらく、自分って一体誰なんだ、家族って何なんだ、これからどう生きていけばいいんだと悩み、葛藤を繰り返していくのですが、しかしその中で、もう一つの大切な事実に改めて気づかされていきます。それは、自分は実の子であろうとなかろうと、今まで、どれだけ両親や兄たちに愛されそして家族の一員として守られて育てられてきたかという事実です。いろいろなことが絡み合って、このことに本当に気付いていくあかりの姿を描きながら、私たち人間にとって、家族にとって、本当に大切なものは何なのかを、あのドラマは伝えようとしていたように思います。私たちは、生きていく中で、大病をするとか、愛する人愛するものを失うとか、自分の思う通りにはいかなくて、“災い・災難”という言葉を使いたくなるような出来事に遭遇することがよくあると思うのですが、そんな中で、災いと思える事実そのものはなくならなくとも、それに勝る、それまで気付かなかった恵み、大切なものに気付かされて、それが生きる喜び、力となっていく、そんなことがあるのではないでしょうか。きょうの福音書を読んでいて、ふと、この思いがよみがえってきました。
きょうの福音書には、遠く離れた所に立ち止まって近寄ろうとはせず、主に「どうか、わたしたちを憐れんでください。」と大声で叫ぶ人たちが登場してきます。彼らは重い皮膚病を患っていました。当時の律法は、そのような病を汚れたものとして、それを患うと人々の生活の領域から隔離することを命じていました。知人や家族とも交わることは許されなかった。そのような状況に置かれた彼らの苦しみは肉体的なものだけではなかったと思います。いや、もっと辛いことがあった。それは、汚れた者という偏見の眼差しで見られ、人々に恐れられ、避けられることの精神的苦痛ではなかったでしょうか。そして、人々の生活の領域から隔離された人たちの生活はどんなに悲惨なものであったかを想像いたします。
主イエスは、そうした深い苦悩の中からの叫びを受け止められ、そして彼らにこう言われます。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。誰もが近づくことさえ避けようとする中で、しかし主イエスは彼らの叫びを受け止められ、何とかしようと語りかけられるのです。そして、この主の言葉に唯一の望みを託していったのでありましょう。主のみ言葉に従っていった10人の人たちは、その途中で清くされたとあります。14節です。「清くされた」とは、それまで彼らを苦しめていた肉体的な病だけではなく精神的な苦痛からの解放をも意味していたでありましょう。彼らは再び人々の日常の生活へと戻り、家族と共に過ごすことができたのではないでしょうか。それまでの隔離された生活を考えればそれはどんな大きな喜びであったでしょうか。主のみ言葉に従ったことがこの解放と喜びをもたらしことを物語っています。
しかし、この物語は、それで終わりではありません。それに続く15節で、10人の中の一人のサマリア人が、癒されたのを知って神様を賛美しながら主イエスのもとに戻ってきて感謝をささげたことを伝えています。これをご覧になって主は言われました。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。」本当に九人はどうしたのでしょうか。さっそく家族のもとに帰り共に喜びを分かち合ったのでしょうか。確かに言えることは、彼らは主のもとには帰ってこなかったのです。帰って来たのはサマリア人だけでした。では、サマリア人だけがどうして主のもとに戻ってきたのか、他に行くところがなかったからか。いや違うと思います。ここで聖ルカが言おうとしていることはそうではないと思います。15節と16節をご覧ください。彼らはただ黙って戻ってきたのではなくて、大声で神を賛美しながら戻ってきたのです。そして主イエスの足もとにひれ伏して感謝しています。よっぽどのことがあったのです。つまりこういうことではないでしょうか。戻って来た一人のサマリア人は、病気が清められたことを喜んだだけではなかった。他の9人とは違って、その清くされたことの出来事の中に、その変化の中に、主の言葉の力、主の愛の大きさ深さ、そしてそれらを通して現された神様の出来事を見た。だから彼はそのことに心を揺り動かされ、感動し、喜び踊って主イエスのもとに帰ってきた。それは、神様の恵みに気付き、その恵みによって癒され、生かされていったことを意味しているでありましょう。そして、その「あなたの信仰があなたを救った」のだと。
聖書には、様々な出来事の中に神様の創造のみ業、出来事を見つめる人たちのメッセージが書き記されています。そしてこの教会は、人々の生活の只中にあって、そのメッセージに出会い、そのことを通して、癒され、創造主である神様のもとに立ち帰り、賛美と感謝をささげる喜びの交わりの場でもあります。