2013年10月6日      聖霊降臨後第20主日(C年)

 

司祭 セオドラ 池本則子

信じる心を持つことが私たちの果たすべきこと

 私が園長をしている幼稚園では今、運動会に向けて毎日練習に取り組んでいます。年長組では、鼓笛隊や組体操など難しい種目をこなさなければならず、先生に叱咤激励されながら、当日を目指して一生懸命頑張っています。
 鼓笛隊や組体操では一人ひとり役割分担があり、それぞれの役目を忠実に果たさなければ全体の体型が整いません。自ら責任を持って自分のしなければならないことを覚え、一人ひとりが自分の果たす動作を行うことによって、初めて一つの種目が完成するのです。

 僕は主人の命じられたことを果たします。しかし、だからと言って主人に感謝されるわけではありません。僕としての仕事をただ忠実に果たしただけです。それが僕のしなければならない仕事だからです。
イエス様は言われます、「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果したら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と。
 イエス様がこの話をされる前、弟子たちが、「わたしどもの信仰を増してください」とイエス様に頼みました。イエス様はそれに対して、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう』と言われています。
 「からし種一粒ほどの信仰」。からし種は他のどんな野菜の種よりも小さいけれども、成長するとどの木よりも大きくなるそうです。

 それでは「からし種一粒ほどの信仰」とはどのような信仰でしょうか。よく「あの人の信仰は強いな〜」「信仰心が深いなあ〜」とか「私の信仰はまだまだ弱いなあ〜」などと言ったりします。確かに、強い信仰あるいは深い信仰を持っていると思えるような人に対しては「羨ましいな〜」とか「すごいな〜」とか思ったりするかもしれません。
 しかし、私たちは弱く不完全で取るに足らない僕です。しかし、からし種一粒ほどの小さな信仰があれば、神様が大きな力を与えてくださるのではないでしょうか。

 クリスチャンが果たすべきしなければならない仕事、それは神様を信じる心ではないでしょうか。神様が共にいて守ってくださっていることを信じ、神様に感謝する心を持ち、イエス様に従っていきたいなあ〜、と思う気持が大切です。どんなに清く正しく、「あの人の生き方は立派だな〜」と人から評価されるような生き方をしていたとしても、そこに信仰がなければクリスチャンではありません。反対に、たとえ生きるのに不器用で神様の望んでおられるような生き方がなかなかできなくても、神様を信じる心、信じようとする心を持っていれば、クリスチャンとして果たすべき、しなければならないことをしているということなのではないかと思います。