2013年9月8日      聖霊降臨後第16主日(C年)

 

司祭 マタイ 出口 創

力ではなく、今受けているものを

「わたしはあなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします。」(フィレモンへの手紙8,9)

 「力や権利を保持しているけれども、行使しない」。わが国の集団的自衛権ではなく、神の力の話です。さっさと力を発揮して、世の終わり、終末、神の国を完成させてしまえば良いのにと、短気な私は思うことがあります。滅ぼす人は滅ぼして、救う人は救って、「はい、完了!」って。神はその力も権利も持っているのに敢えて行使しない。

 イエス様もそうです。敢えて十字架への道を歩みます。使徒パウロも弟子フィレモンに対して、逃亡奴隷オネシモの生命の保護を、命令ではなく愛に訴えて願っています。イエス様とパウロの間は「力」の関係ではなく、「愛」の関係だったからでしょう。

 神さまとイエス様、イエス様とパウロ、パウロとフィレモンやオネシモ、そしてイエス様と私たちの間を結んでいるのは、信頼、自由、尊重、愛など、「イエス様によって現された神様らしさ」の欠片です。その欠片こそが人を結ぶ絆であるはずです。そしてその絆は、「何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」(ヤコブの手紙3:17)。

 どのような「神様らしさ」の欠片を今受けているでしょうか。それを人に味わってもらうことを宣教というのだと思います。