2013年8月18日      聖霊降臨後第13主日(C年)

 

執事 ダニエル 鈴木恵一

 先週に続いて、神の国について、とくに世の終わりに現れ完成する神の国について語られているのが、今日の福音書です。
 「世の終わり」というと何か恐ろしいもののように感じてしまいます。また今日のイエスさまのことば「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」には、戸惑いを感じます。
 イエスさまがここで言われている「平和」や「分裂」はどういう事を指しているのでしょうか。
 イエスさまが来られたのは、本来、平和をもたらすためでした。「平和」はヘブライ語では「シャローム」といい、イエスさまの誕生の場面でも、「・・・地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)と天使たちが歌いました。この平和は人と人とが深く尊重し合って生きるような、神さまからもたらされる平和です。今日の箇所でイエスさまが言われている「平和」は表面的な争いが避けられているだけの状態を言っているのだと思います。イエスさまは、苦しみや困難の中にある人々に寄り添って歩まれた方です。その出会いの中で、その苦しみのなかで尊厳を押さえつけられている人々の声を聞き、その苦しみからの解放,神の国の訪れを伝えられました。このことは、当時の社会の指導的な立場にある人々にとっては、イエスさまは平穏を乱す者、平和を壊す者として映ったことでしょう。
 対立や分裂は誰にとっても心地の良いものでありません。できるなら避けたいものです。しかし、そのことによって苦しみや困難、人々の叫びをも押さえつけてしまっているのならば、そこにイエスさまの示された平和はありません。神の国の正義と平和を求めるとき、それは人の目には対立と映ることがあります。
 イエスさまはその人々の対立の中にあっても、武力や政治的な力をもって解決されたのではありません。むしろわたしたちには、小さく弱く見える姿で、対立するわたしたちの間を歩まれました。
 イエスさまの示された神の国、イエスさまの示された平和について、思いを深めていきたいと思います。