2013年7月14日      聖霊降臨後第8主日(C年)

 

司祭 バルトロマイ 三浦恒久

相手の痛みに寄り添い、共に歩む【ルカによる福音書10:25〜37】

しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 (ルカによる福音書10:29)

 律法学者は、律法の専門家としての誇りと自負を持っていました。大勢の群衆が従うイエスがどれほどの者であるか、試そうと議論を吹きかけました。

 律法学者:先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。
 イエス:律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。
 律法学者:「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさ
         い。また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります。
 イエス:正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。
 律法学者:では、わたしの隣人とはだれですか。

 律法学者は、イエスが「それを実行しなさい」と言われたことに慌てました。とっさに話題を変えました。議論好きの律法学者は実践が苦手だったようです。自分を正当化するために話題を変えたのです。

 《自分を正当化する》、これはアダムとエバの失楽園以来、人類が引きずってきた罪です。
 ―神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムが答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向って言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」(創世記3:11〜13)
 人は自分を守るためには、誰かに責任転嫁してでも、自分を正当化しようとします。アダムとエバはそうでした。また、人はどんな理由を付けてでも自己正当化して、自分を守ろうとします。律法学者がそうであり、イエスが語った《善いサマリヤ人》のたとえに登場する祭司とレビ人もそうであったと思います。

 それでは、アダムとエバ以来、人類が引きずってきたこの罪を克服する道があるのでしょうか。あります。相手の痛みに寄り添い、共に歩むことです。
 ―旅をしていたあるサマリヤ人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。(ルカ10:33〜35)

 このサマリヤ人の行為は、イエスの十字架の道を表しています。徹底的に与え尽す道。《自分自身を救わない》という道です。
 自分自身を救わなかったイエス。このイエスに従っていきましょう。