2013年7月7日      聖霊降臨後第7主日(C年)

 

司祭 エッサイ 矢萩新一

「私たちの存在自体が福音!?」【ルカによる福音書10:1−12、16−20】

 ここ数年の梅雨は、しとしと降り続くというよりも一点集中型の大雨という場合が多いように思います。原発のこと、憲法のこと、米軍基地のこと、様々な課題が山積しています。不安な日々を過ごされている方に神さまのお守りを祈りたいと思います。
 さて、今日の福音書の冒頭に、イエスが72人の人々をペアにしてそれぞれ派遣されたと記されています。この72人という数字は、旧約聖書の中では全世界の民族の数だとされていました。ですから、宣教の働きの対象となる人は、全世界の人々におよび、宣教の担い手となるのは全世界の人々ということを現しています。司祭や教役者だけが宣教の担い手なのではなく、信徒のみなさん一人一人が宣教の担い手、しかも一人孤独な使命ではなく、「ペア」、あるいは2人以上で協働して行くものであることが語られています。
 さらに宣教の働きに際しては、「財布も袋も履き物も持っていくな」と言われます。修道会はこの鉄則を今でも守り、身一つで宣教の現場へと向かいます。たくさんの財産を持っていると、それを失うのが怖くて、後ろ向きな姿勢になってしまうからでしょうか。私たちの教会でも、日々の礼拝の信施を教会の外へ、困難な状況にある人々の為に献げようとするのは、このイエスの言葉から来ているのだと思います。
 私たちが福音を宣教する、伝道するという時、必要なものは自分の身一つでいいのだとイエスは教えられます。それはすなわち、私たち一人一人の「存在そのものが福音」だということです。今日の福音書の最後に、「あなたがたの名が天に記さされていることを喜びなさい」とありますが、自分の名前が天に記されていること、これが私たちを宣教へと向かわせる根拠となります。京都教区の初代主教ウイリアムズ師は、「道を伝えておのれを伝えず」と語られ、ウイリアムス神学館の座右の銘になっています。ちなみに日本聖公会は2009年、ウイリアムズ主教が長崎に来られた1859年から数えて、宣教150周年をお祝いしました。半世紀程前の全盛期から比べれば、今では信徒数が減り、教役者の数も減り、何かにつけマイナスの傾向にあって、どこの教区も、もう一度、伝道・宣教の体制を立て直そうとしています。2012年には、日本聖公会全体の宣教協議会が行われ、「宣教・牧会の十年」という提言も出されています。
 教会では、伝道とか宣教という言葉をよく使います。教会の信徒を増やすには伝道をしなくてはと、肩ひじを張っているだけでは、イエスの示される道を伝えていくことにはならないのだと思うのです。先ほど、「あなたがたの名が天に記さされていることを喜びなさい」、自分の名前が天に記されていることが私たちを宣教へと向かわせる根拠だと述べましたが、自分自身が神さまによって大切に生かされているように、他の人も同じように神さまによって大切に生かされていることを喜べること、そこが宣教の出発点です。そんな私たち一人一人が歩む人生そのものが、伝道・宣教となっていくのだと思います。だからイエスは、どこかの家に入ったら先ず、シャローム=「この家に平和がありますように」と挨拶をしなさいと教えられます。その人の家に平和があるように願い、自分を押し付けるのではなくて、イエスの示される道を一緒にたずね求めようとすること、そのことによって本当の平和がその家にと留まるということを、今日の福音書から学びたいと思います。私たちが毎週の礼拝の中で、「主の平和」と挨拶を交わせる喜び、天に自分の名前が記されている喜びを、たくさんの人と分かち合えるように、いろんな可能性を信じ、安心して日々の歩みを進めていければ素敵だと思います。