2013年6月30日      聖霊降臨後第6主日(C年)

 

司祭 アンナ 三木メイ

「天に上げられる時期が近づくと」(ルカ9:51)

 イエスは、荒れ野での修行を終えた後に、ガリラヤで神の国の福音宣教を開始し、多くの人々の尊敬を集めました。けれどもその一方で、出身地のナザレでは受け入れられず、町の外に追い出されてしまいました。イエスはこの時、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と言い、旧約の預言者エリヤのことを例にあげています。そして、その後の活動においても、イエスはしばしば、預言者エリヤの再来か、と人々から見られていました。
 今日の日課の福音書には、サマリア人の村の人々が、イエスを歓迎しなかったことが記されています。そのとき、弟子たちが「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったのは、預言者エリヤがかつてカルメル山でバアルの預言者たちと勝負し、主の火が天から降って勝ったという言い伝えを知っていたからです。しかし、イエスにとっての「決戦」の場は、サマリアではなく、エルサレムでした。しかも、そこで自分が多くの苦しみを受け、排斥され、殺されることを知っていました。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(ルカ9:51)それはメシアとして、神から与えられた使命を果たすために、成し遂げなくてはならないことでした。多くの人々の救いのために、自らの命を献げること。だから、イエスは弟子たちにも、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)と、その道の厳しさを説いています。
 そして、イエスに従う前に「父を葬りに行かせてください」とか「まず家族にいとまごいに行かせてください」という人には、「神の国にふさわしくない」と言っています。これは、どうしてだろうと思うくらい冷たい言葉に聞こえます。エリヤの弟子エリシャが、エリヤに従う前に父と母に別れを告げに行かせてほしいと願い出た時には、エリヤはそれを許しています。この点では、イエスとエリヤの対応は全く異なっています。なぜなのでしょうか。モーセの十戒には、「あなたの父と母とを敬え」という戒めがあり、エリヤの話はその教えに沿って語られています。しかし、イエスはこの律法をも超えて、神から託された使命を果たすために命を献げる覚悟が必要であることを、弟子たちに告げたかったのではないでしょうか。イエス・キリストの神の国の福音は、それを受け入れる人々と、受け入れない人々との間に大きな溝を造り、それが家族と家族を引き裂く結果をもたらす場合も多かったと思われます。おそらく、イエスご自身、自分の母や兄弟の期待に沿って生活していたら、メシアとしての使命を果たすことはできなかったでしょう。イエスはご自分の十字架を負って死に、復活の後に、天に上げられました。旧約聖書時代においては、「死」は、陰府に下って神との関係も生者との関係も断たれることでした。ただ、預言者エリヤだけは、嵐のなかを天に上って行ったと伝えられています。神は、イエス・キリストの死と復活と昇天を通して、キリストを信じる者たちを天に昇らせる道を備えてくださいました。天においては神の御手に抱かれ、生きる聖徒らとの交わりも断たれることはありません。だからこそ、イエスは預言者エリヤの再来ではなく、神の子・救い主であり、私たちの主なのです。