司祭 ヨハネ 黒田 裕
心にかけてくださった【列上17:17−24、ルカ7:11―17】
息子を亡くした「サレプタのやもめ」が預言者エリヤに抗議する言葉(列上17:18)のうち、「思い起こさせる」は、20世紀後半以降に聖餐論で強調されてきた「想起」(アナムネシス)の聖書的用例の一つと指摘(G.ディックス)されています。単に心の中にある像が浮かぶというだけではなく、出来事としてある結果が起こること(ここでは息子の死)を意味しているのです。そして、礼拝学の教科書などでも、アナムネシスは単に過去の出来事を思い出すだけでなく、そこに主が臨在しておられるということである、と書かれています。しかしながら、まさにそこが、若い頃の私にはどうしても腑に落ちなかったのです。「臨在」と言われても、聖餐式の度にそういう感覚や感情があるわけではなかったからです。そして、そうである自分を恥じ、責める気持ちも起こりました。
しかし今思うのは、私たちの感情や感覚の問題なのか、ということです。イエスさまの臨在とは、私たちが感覚すること、感じることに左右されて決まるのでしょうか。ここで福音書の、イエスさまの奇跡行為に出くわした民衆の叫びに注目したいのです。「神はその民を心にかけてくださった」!(ルカ7:16)。
この「心にかける」には、「訪れる」さらには「欲する」「探す」「掘り出す」という意味もあります。そして、私たちはここで奇跡行為に目を奪われますが、聖書では奇跡そのものが終局的な目的ではありません。肝心なのは、奇跡を通して、「あの神さま」が、“今ここに”訪れたと宣言されているということです。こうして主は、久しく救いを待ち望んでいる人々に、私たちに、ご自分を現してくださったのです。つまり、先ほどからの「想起する」は、もっぱら、私たちが「思い起こす」「想起する」、私たちが感覚する、感じるという問題として扱われていました。しかし、私たちが「想起する」という以前に、主が私たちを「想起」しているのではないでしょうか。私たちが感覚する、感じる以前に、神さまが、私たちを訪れてくださる。主が私たちを「心にかけ」、私たちを「欲し」、「探し」てくださるのです。また、「掘り出す」という動詞から連想するならば、そして、敢えて、てらいもなく言うのであれば、私たち一人一人が、神さまの「掘り出し物」なのです。
このあと、礼拝は、「み言葉の部」を終えて「聖餐の部」へと入っていきます。とくに感謝聖別において、私たちが“記念”する前に、神さまは、イエスさまを通して私たちを記念し「心にかけ」「欲して」くださる、私たちを「訪れて」くださる、ということを共におぼえ、またそれにふさわしく聖霊が私たちを整えてくださるよう、共に祈りたいと思います。