2013年5月19日      聖霊降臨日(C年)

 

司祭 バルナバ 小林 聡

「わたしたちは一つ」【ヨハネ20:19−23】

 教会の暦で聖霊降臨日は、教会の誕生日だと言われます。誕生した教会が2000年を辿ってきた今を踏まえて、この日について私自身の体験を振り返りつつ思い巡らしたいと思います。
 まず、聖書は次のことを語ります。
 イエス様が不安におののいて、部屋の戸を閉め切って震えているお弟子さんの真ん中に立って、「主の平和」とあいさつされました。こんにちはと言う意味で使う「主の平和」(ヘブル語)。イエス様からのそのあいさつがなかったら、神様から頂く元気の元、つまり聖霊の働きもお弟子さんたちの心の中には入って来ませんでした。聖霊は不安の内にあるお弟子さんたちを励ますだけではなく、一人一人の罪の自覚、つまり神さまからそれて、自分本位の在り方をしている自分の状態と向き合うことへと向かわせます。そして道をそれてしまっている生き方から、神さまの方に向き直る生き方へと視点を変えさせられた者として、再び立ち上がり、復活の福音を証しする者に変えられていったのでした。教会とは、自分の罪を見つめ、赦された者として復活のいのちを頂いた者たちの集まりであり、そのことを証しする共同体なのです。
 私は16年前イギリスで聖公会から分裂したメソジスト教会と聖公会との合同神学校で過ごすということを体験いたしました。そしてその次の春にはオランダにあるカトリック教会と改革派の教会の合同礼拝に参加し、その翌年にはユダヤ教とキリスト教の合同の和解の旅を経験しました。アフリカではメソジストと聖公会の合同教会で一ヵ月半を過ごし、南アフリカの神学校を訪れた時も、そこは多数の教派の神学生が学ぶ合同神学校でした。アパルトヘイト(人種隔離政策)を終わらせる為に働かれたデズモンド・ツツ大主教もそこで学ばれていました。4年前に訪れたフランスのテゼ共同体はまさに超教派の集まりですし、3年前に訪れたスコットランドのアイオナ共同体には、フリーチャーチという教会のメンバーが来ていました。それらの体験は、教会が現実に分裂しており、その中で、少なくない数の教会が、一致と歩み寄りの道を模索し続けているということを私に教えてくれました。
 私たちは、今分裂してしまっている教会が、互いに歩み寄り、一つになる経験をしている教会のうねりの中に生きています。しかし教会の一致を考える時に、まず懺悔しなければならないのではないでしょうか。分れ分れになってしまった、私たちの今の教会の姿に対して、本当にそれをイエスさまは望んでおられたのかということを思いながら。そして教会は最初にどのように出発したのかをもう一度思い起こさなければならないでしょう。
 教会は分裂と恐れと、不安の只中にイエスさまが現れ「平和」と語られたところから始まりました。そして聖霊を注ぎ込まれたのです。それは人間の罪深さの自覚と、神の赦しによる、人間の立ち上がりの経験でした。ヨハネによる福音書も、使徒言行録もそのことを語っています。
 私たち聖公会に属する者は、今日の日に、あらためて私たちの教会の使命について考える時が与えられていると思います。
 私は、次の本のあとがきに書かれていた文章を、一致に向かおうとする途上の中で、今も、心に留めたいと思っています。

  あとがき「キリスト教史」 共著 菊地栄三・菊地伸二
  諸教会の一致
  キリスト教にとって「正しい教え(オルトドクサ)」とは何であり、「正しい行い(オルトプラクシス)」
  とは何であるかについて、より明確にしながらも、しかしそのいずれか一方ではなく、その両者を
  真に生きることができる教会へと踏み出すところから始まる
  他宗教との対話
  自らの変革も覚悟。本格的な対話とは・・両者の真の共生を目指すもの・・あらゆる差別を乗り
  越えんとする交わり・・・イエスの福音の真髄、イエスの言行そのもの。

  孔子 「忠恕(ちゅうじょ)」
  自己の良心に忠実、他者に対する知的な思いやり

  カント 「寛容なき真理への情熱は危険であり、真理への情熱なき寛容は空虚になる」
  寛容なき自己の信仰の主張は、傲慢な排他主義に、また自己の確固たる信仰なき寛容は
  無責任な多元主義に陥る。

 私たちは今日、聖霊降臨日を迎えています。私たちが、一つになるために、私たち自身が変えられる事を、そして変えられる事によって新しい豊かな共同体が生まれることを、喜びと感じたいと思います。私たちを新しくし、一つとしてくださる聖霊が豊かに私たちの中に降り注ぎますように。そしてそのことを通してこの世界に生きる私たちが、一つの命、一つの体を生きているということに心底気付いていくことができますように。