2013年5月12日      復活節第7主日(昇天後主日)(C年)

 

司祭 パウロ 北山和民

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、全ての人をひとつにしてください。….わたしたち(教会)が一つであるように、彼らも一つになるためです(ヨハネ福音書17章21−22)

【「昇天」という逆説】
 先日ある小学生の作文をテレビで聞いたとき、わたしは本日の特祷と合わせて、深い気づきがありました。それは3.11で母親をなくした小学生の女の子が3年生になって書いた、「3月10日までは楽しかったのに。3月10日までは、お母さんはケーキ作ってくれたのに。・・・お母さんは仕事場の近くで見つかった・・・」という作文でした。わたしは胸のつぶれるような思いで聞き、「どうかわたしたちをみなしごとせず」という本日の特祷と弟子達の不安と絶望に思いを向けました。「昇天日」は教会の伝統では「キリストの揺るがない勝利」を祝うのですが、つまり教会が聖霊降臨によって「三位一体の教会」になるためには、昇天という二度目の別離、すなわち「崇拝対象の喪失」を経験しなければならなかったということ。冒頭の小学生、そして弟子達の深い喪失・絶望感に寄り添い、共にもだえるような「他者性」こそが、わたしたちの主イエス・キリストなのです。「揺るがない教会(聖歌389番)」とは逆説的に「愛のために揺れる教会」なのです。

【イエスの本願とは「ひとつ」になること】
 この季節はヨハネ福音書の13章から20章のいわゆる「栄光の書」がわたし達を招く。本日のイエスの言葉は、「ひとつ」とはどういうことか、イエスの本願は何なのか、このテキストではよくわからない。帝国主義やファシズムに使われる「勝つためにひとつになろう」ではないはずですが、一神教が誤解される原因の一つです。
 わたしたちの教会は、この期節、過ちと不完全さを恐れずに指導者達が「聖書」をつむぎ、「三位」でありつつ「一体」の教理教会を構築し続けた「血の歴史」を思わねばなりません。蛇足ながら、新約最初の聖書(カノン)を作った2世紀半ばのマルキオンがなぜ正統教会にとって最大の脅威であったか学びたいと思のです。
 このヨハネ福音の「ひとつになる」とは、「アガペー(愛・聖餐式)」を頂戴するということ、「殺し合う現場」になお対話の勇気を与えるのは「あなたの他者性・ナザレのイエス」なのだ、と招く「愛の一貫性」のことのように、わたしは思います。続く聖霊降臨、三位一体の期節、「一体」がなぜ強調されねばならないか、注意深く説教することが求められます。