2013年4月21日      復活節第4主日(C年)

 

司祭 ヨハネ 石塚秀司

「まことの羊飼い」【ヨハネによる福音書10章22−30節】

 復活節第4主日に朗読される福音書は、ヨハネによる福音書の10章22節から30節ですが、ここだけではなくて、このヨハネ福音書10章の1節からずっと羊と羊飼いのたとえが述べられています。復活節第4主日は「良い牧者の主日」とも呼ばれていて、この10章を3つに分けて、A年・B年・C年と3年周期で読みながら、毎年「良い牧者」のことを思い起こしていきます。では、「良い牧者」とはどういうお方だと言っているのでしょうか。この10章にはこのような言葉が繰り返されています。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊に受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10節・11節)。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。わたしは羊のために命を捨てる」(14節・15節)。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える」(27節・28節)。
 ここで、羊とは私たち人間のことを、羊飼いとは主イエスご自身のことを言っているのであり、羊の大牧者イエス・キリストと私ども人間との関係をこのたとえで語っていることは容易に理解できると思います。イエス様と私たち信じる者とはこのような関係にあるということです。と言うことは、言葉を変えて言うならばこのようなメッセージを私たちに語りかけているのではないかと思えてきます。「あなたのことを思っている私がここにいるじゃないか。あなたの悲しみ苦悩を知り尽くした私がいるではないか。復活に至る道を示しそこを歩む命を与えるためにご自身の命を捨ててくださった羊飼いがここにいるではないか。」このヨハネ福音書10章を何度も読んでいく内に、その行間からこのようなメッセージが聞こえてくるような気がします。
 キリスト教信仰において、この声を聞き受け止めて、生き方が大きく変えられていった人たち、すなわち、主のご復活の恵みにあずかった人たちが、今日までにどれだけいたことでしょうか。イエス様の十字架の死は羊のためにご自分の命を捨ててくださったことに他なりません。そして、そこに大きな真実な愛があることに気づき、それまで支配されていた孤独感や虚無感、絶望感から解き放たれていった人たちが大勢いるのです。確かに主は、信じる人たちの魂の良い牧者としてそのみ業をなさってこられたし、今も、信仰というつながりを通して、キリスト教会を通してなさっておられる。私はこう信じています。
 少し大げさな言い方になるかもしれませんが、私たち人間は文明の発展とともに明るい光の部分を数多く作り出しながら、しかし同時に、それにも勝る多くの闇の部分を作り出してきたように思います。その闇の部分にも光を当てることのできるまことの羊飼い、魂の大牧者を必要としているのではないでしょうか。私たちの交わる教会が、人々とまことの羊飼いとの出会いの場となることできるようにと、いつも祈っています。