司祭 ミカエル 藤原健久
復活前主日には、毎年、イエス様の受難の箇所が読まれます。
私の勤務している教会では、この日には、通常の説教を行わず、教会委員の皆さんで役割分担して、福音書を朗読します。
祭壇の前に並んでいただいて、自分の役割の時に、朗読していただきます。
そして、「民衆」の時には、会衆全体が声を合わせて朗読します。
動作こそありませんが、受難の場面を、演劇のように表現しています。
これは、イエス様の受難を再現して、私たちもその中で追体験しようとするものと、私は理解しています。
この事によって、イエス様の受難を、自分に深く関係することとして受け止めたいと思います。
イエス様を十字架に付けたのは、周囲の人々の、「罪」と言うべき様々な思いでした。自分より正しい人に対するねたみ、無実と知りながら人気を得るために有罪の判決を下す無責任さ、苦しむ人から目をそらす弱さ、周囲の声に簡単に流される浅はかさ、弱い人に暴力を浴びせたくなる残酷さ、そして、聖書には明確には記されていませんが、多分多くの人がそうであったであろう無関心。これらの思いは、私たち一人一人も持っているものです。
今の、この私が、イエス様を十字架に付けた、そのように言えるのではないでしょうか。
今、この聖書の場面に自分がいる。どこに居て、何を見て、何をして、どのように感じているか、この事を深く黙想したいと思います。