司祭 マタイ 出口 創
あきらめてみませんか
「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」。
【コリントの信徒への手紙二5章20節】
日本語の「あきらめる」という言葉を、「あきらかにする」という意味にとらえると、自分の置かれた状態や事実をしっかりと見つめ、また、はっきりと認めて、現実を積極的に受容するという事になるそうです。(アルフォンス・デーケン『心を癒す言葉の花束』集英社新書、2012)
「今の自分」。もしかしたら誰もが、半ば諦めながら付き合っているのかもしれません。時に誇らしく思い、時に腹立たしくも思う。かつて出来ていたようには上手く出来ない今の自分が嫌い。加齢、病気、怪我など、原因は様々。かつて輝かしい成功体験を持っている人ほど、「あきらめる」のが難しいのかもしれません。「だから/でも、出来るだけはやってみよう」。それも良いでしょう。
でも知ってください。何が出来ても出来なくても、あなたの価値は変わりません。もしあなたが今、充実していて光り輝いているとしても、病床で身動きできないとしても、「豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べる物をくれる人はだれもいな」いとしても(ルカによる福音書16章16節)、「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」(ルカによる福音書16章29節)と胸を張って言えるとしても、神様から見れば、あなたの、人格そのもの、存在そのものが、愛しい子なのです。
「良い子」でも「悪い子」でも、神に愛されている子であることに変わりはありません。神の独り子、イエス・キリストの弟妹です。
クリスチャンもそうでない方も、まずはこの事を「あきらめて」みませんか。自分が神の愛する子であり、イエス・キリストの弟妹である事実を「あきらめる」。すると、安心感に包まれます。その神の安心感にゆったりと浸りましょうよ、温泉に入った時にのぼせ上がるように。