2013年2月10日      大斎節前主日(C年)

 

司祭 マーク シュタール

 先日、仕事に行くために電車に乗っていると、違うホームから変な音が聞こえてきました。それは叫び声というより怒鳴り声のような感じで、誰かが怒っている感じでした。あまりに大きな声だったので、電車に乗っている人もホームの人たちも一斉に聞こえてくる方角をみました。同時に、ほとんどの人は見てはいけないと考えたのか、他の人もその方角を見ているか、確かめていました。私の電車のドアが締まっても、皆、依然として音のする方角を見たり、他人も見ているかを確かめていました。
 その光景から、今日のみ言葉を考えさせられました。私達の注目を集めるには、注意を引くには何が必要でしょうか?モーゼの顔の肌は光を放っていました。パウロは使徒書で信仰の本質と真実の愛の力を説いています。人の注意を引くには、“劇的な光景か見過ごし難い光景や出来事”などが考えられます。そう考えると、聖書の物語の持つ力は容易に見過ごしてしまうことがわかります。特に今日で終る顕現節の出来事です。顕現節の始めと終わりの出来事を思い起こしてみましょう。それは畏怖の念を起こさせ、劇的です。博士らが星に導かれ、長い旅を経て、馬屋で産まれたばかりの嬰児を拝みに来ます。王にふさわしい貴重な捧げものを携えています。この生き生きとした物語の始まりが意味する所をどうして見過ごす事が出来ましょうか?この嬰児は、王の王、主の主となることが運命づけられているのです。神様が神の子としてこの世に現れた劇的な物語です。
 顕現節で一つの疑問が浮かびます。このキリストの光をどのようにして私達の生き方に反映できるでしょうか?言い換えれば、”神の聖霊をどのように私達が現していくことができるか”ということです。
 顕現節の終わり方は始まりと同様に劇的です。イエスの山上の変容の際、側近の弟子達、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの目の前で聖なる光に包まれ、姿を変えます。弟子達は、雲に包まれ戸惑いの中、神様のみ声を聞きます。”これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け”。これが神様が顕現節に現れたということです。私達と同じ人の姿になられた神様。
 この物語を何度も聞いた私達は、顕現節の出来事を選択的に信じることも出来ます。キリスト者でない者、または福音書を読んだ事のない者は、この奇異でまやかしのような物語を笑うかも知れません。私にとって、顕現節の始まりと終わりの物語の指し示す所ははっきりしています。神様、聖霊は変容出来る、姿を変えることができるということです。実際、神様は私達の生き方をも変える事が出来ます。この今も。それを感じる事が出来ますか?見過ごしてしまったでしょうか?神様はこの劇的な物語の中で多くを語っています。それに注意を払いましょう。
 あの日、駅で何があったのかは知りません。劇的な変容があったとは思えません。私を捉えたのは、周りの人たちの行動でした。皆、何があったのだろうかと見ていました。何か変なこと、恐ろしいことがあったのではないかと考えたのではないでしょうか。皆、答えを欲していました。でも、誰も同じ思いで、神様が自分を如何に変えられるかということに関心を寄せているとは思えません。私達には、それが見えますか?見過ごしていますか?神様はこの劇的な出来事で多くのことを語っています。注意を払いましょう。