2013年1月27日      顕現後第3主日(C年)

 

司祭 サムエル 奥 晋一郎

「聖書を聴く」【ルカ4:14−21】

 礼拝では必ず、聖書が朗読されます。聖餐式、み言葉の礼拝、朝夕の礼拝、聖婚式、葬送式、またキリスト教の幼稚園、学校での礼拝など、様々な礼拝がありますが、必ず聖書が朗読されます。聖書は神様の言葉が書かれた書物で、2000年以上にわたって、人々の心のよりどころとなってきた祈りの書、聖なる書物です。その聖書の箇所、新約聖書のルカによる福音書4:14−21の箇所は、イエスさまが聖書を朗読していることが書かれています。
 イエスさまは、荒れ野で悪魔からの誘惑を拒否し、霊に導かれて、ユダヤ北部のガリラヤ地方の諸会堂で人々に教え、尊敬を受けていました。そんなある日、イエスさまはご自身が育った町ナザレにやってきます。ナザレにおいてもイエスさまは仕事を休む日である安息日に会堂に入り聖書を朗読されます。当時の聖書は巻物です。この日は預言者イザヤの書、旧約聖書、イザヤ書62:1−2の箇所を朗読されました。
 その箇所は、元々、第三イザヤと呼ばれる預言者自身の召命を語る箇所だったと考えられていました。しかし、イエスさまが活動された時代にはこの箇所が、来るべきメシア(救い主)についての預言と受け取られていました。その箇所をイエスさまが朗読された後、イエスさまは会堂にいる全ての人々に「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われます。このことはイエスさまご自身が、来るべきメシアとして存在することを示すものでした。
 このイエスさまが会堂の人々に言われた言葉は、わたしたちにも言われた言葉です。イエスさまはわたしたちにも聖書の言葉を通して、来るべきメシアとして、神様の救いを伝えてくださっています。聖書は礼拝のとき、また各自で読まれています。その聖書の言葉は、時にはわたしたちの心に残る印象深いものかもしれません。時には残念ですが、体調がよくない状態で集中力を欠き、心に残らない時があるかもしれません。時にはうれしすぎて、また悲しすぎて、しっかりと受け止めることが出来ない時があるかもしれません。
 しかし、わたしたちがどのような状況にあったとしても、イエスさまは聖書の言葉を通して、いつもわたしたちに対して、神様の救いを伝え、一人ひとりが神様に生かされている尊い存在であることを伝えてくださっています。だからこそ、わたしたちはこれからも礼拝を行い、聖書が読まれるときに、そのことを心に留めつつ、安心して、感謝して聴くことができればと思います。