2013年1月20日      顕現後第2主日(C年)

 

司祭 テモテ 宮嶋 眞

「水をブドウ酒に、、、?!」

 今日の聖書の箇所(ヨハネ2:1−11)は、ガリラヤ地方のカナというところで行われた婚宴の席で、宴会の途中でブドウ酒が尽きたときに、助けを求められたイエス・キリストが水をブドウ酒に変えられた奇跡を行われた場面です。そこにはユダヤ人にとっては律法で定められた清めの儀式のための水を蓄えておく甕がありました。その甕を使い、水を満たし、その水をブドウ酒に変えることで、律法による救いではなく、イエス・キリストによる新しい救いがもたらされたというメッセージも込められているようです。
 今から70年ほど前、戦争中のことです。今の横浜教区に、英国聖公会から派遣されたサミュエル・ヘーズレット主教という方がいらっしゃいました。
 1941年日米開戦の日に彼は官憲に逮捕され(敵性外国人ということでしょう)、警察署で取調べをうけ、数か月にわたって刑務所で監禁されたようです。同様に監禁されていた外国人は数十人にのぼるといわれます。監禁されていても、日曜日がやってきます。彼は日曜日に、神さまに祈りをささげるため、聖餐式(パンとブドウ酒を用いてキリストの受難と復活の秘儀にあずかる儀式)を行おうとしました。パンは前日に与えられた食料から少しを取り残しておきました。しかし、獄中ですから当然ブドウ酒は手に入りません。そこで彼は、飲み水を少し残しておきました。
 日曜の朝になって、彼は獄中にある人々と共に聖餐式の祈りを始め、定められた祈りの中に「ガリラヤのカナで、水をぶどう酒に変えたまいし主よ、、、、、」という一言を加え、水をブドウ酒の代わりに用いたそうです。
 戦争中、獄中というたいへん困難な状況の中であっても、神さまの働きを信じて祈り求めていくという姿勢は、今日の聖書で述べられている奇跡に通じるものがあるように思います。
 この話には後日談があって、釈放されたヘーズレット主教が、船でイギリスに戻る途中、同じ船で、カトリックの聖職に出会い、この件について話し合いったそうです。このカトリックの司祭は、主が命じたブドウ酒がなかったのだから正式な聖典を行ったことにはならないという考えでした。議論の終わりに彼は次のように述べて一息ついた。「しかし、神は、時として奇跡を起こされる。」と。
 「正規であろうと無かろうと、礼拝の意味は否定できない。、、、わたしが記憶している思いを尽くした礼拝において、神の臨在は経験としての事実を超えるものであった。このことは特に復活日に、わたしにとっても他の人にとってもそうであった。」とヘーズレット師は述べている。(「日本の監獄から」サミュエル・ヘーズレットより)