2012年12月16日      降臨節第3主日(C年)

 

司祭 ヨブ 楠本良招

「悔い改め」【ルカによる福音書3章7節〜18節】

 寒さが厳しくなってきました。初島は浜風が強くなっています。先日、隣家に接した大きな木にシロアリが発生したために、隣家の許可のもと、その木を伐採することがありました。シルバー人材センターから(現役を退職した人々の人材を生かす)たった2人で大きな木を切り倒しました。まず、一人がチェンソウで木の枝を落とし、次に幹を切り、下に落としてさらに小さく切って軽トラックで運びました。すべて午前中で終了しました。その技術に見とれていまいました。園児たちも窓からその様子を見ながら、すごいと感激していました。

 道を求めて洗礼者ヨハネのもとにきた群衆に示されたのは、石やまむしや実を結ばない木でした。それは荒野にごろごろしているものです。それによってヨハネは人々の心を指した言葉でした。
 悔い改めない信仰、儀式化した信仰、これほど神さまから遠いものはありません。洗礼者ヨハネが指摘したのは、神さまの不思議な恵みを教えるためでした。石からもアブラハムの子を起こすことが出来ると述べました。まむしにかまれると、良い薬が必要になります。まむしももし悔い改めるなら良い薬になると言うのです。
 ヨハネの説教には、厳しいさばきの中にも、不思議な神さまの恵みが隠されています。ヨハネは、彼らも悔い改めなければ滅びると言いました。
 悔い改めは他人ごとではなく,自分自身のことなので、誰かにしてもらうわけにはいきません。そして悔い改めは、いますぐできることです。
 あることわざに「救いは、キリストを心に迎える用意のすべての者にあり、さばきは、その心をかたくなにし、救い主を拒否するすべての者にある」とあります。
 「洗礼を受けるためにはどうすればようのですか」の質問と、ヨハネは徴税人には「規程以上は取り立てるな。兵士には「金をだまし取ったりせずに、自分の給料で満足せよ」と説いています。
 ヨハネは洗礼にそれぞれの生活に具体的な示唆を与えています。

 私が洗礼を受けるときにこのような具体的な指導はありませんでしたが、今までの生活から、神さま中心に生きるようにと言われた当時の指導司祭の話しを思い出しています。
 讃美歌第2編、195番に「キリストにはかえられません」と言う歌詞があります。私の好きな歌です。ちなみに今年5月の和歌山伝道区の集いで、私がこの讃美歌をプリセンで歌いました。1番は次のような歌詞です。「キリストには変えられません、世の宝もまた富も、このおかたがわたしに 代わって死んだゆえです。(おりかえし) 世の楽しみよ、去れ、世の誉れよ、行け。キリストにはかえられません、世のなにものも。」

 隣家の大木をたった二人で切り倒したのは熟練と経験があったと思います。
 この讃美歌のように、私達は生活を通して、「この世の楽しみや誉」を持たないような熟練した努力が必要と思っています。