2012年12月9日      降臨節第2主日(C年)

 

司祭 ヨハネ 黒田 裕

「備える」ということ【ルカ3・1−6】

 降臨節も第2主日を迎えました。この主日は「迎える」「備える」―「主をお迎えする備え」―が主題になっていて、それにふさわしい聖書日課が選ばれています。福音書では、今日は洗礼者ヨハネが登場する場面が選ばれています。
 ご存知の通り、彼は、イエスさまの先駆者、道備えをする役割を果たしているわけです。この箇所を見るとき常々思うことがあります。どうして洗礼者ヨハネが必要だったのか。どうして先駆者が必要だったのか。いきなりイエスさま(の登場)、では、いけなかったのか―。
 それを考える上で参考になりそうな体験が数年前にありました。それは、神学院で行なったイエズス会の神父さんの指導による黙想会でのことでした。その黙想では、目をつぶりながら、神父さんの導きによってすすめられるものだったのですが、その導きは、黙想の題材である聖書の箇所について、周辺部分から徐々に、中心へと向かうものでした。興味深かったのは、周辺から段階を踏むことによって、むしろ祈りの中心へと導かれる、ということです。というのは、独りで祈るときのことを考えてみると、もっとも気がかりなことについていきなり祈ろうとするのですが、意外に集中できないことが多いなあ、と常日頃感じていたからです。しかし、一番祈りたい、祈りの中心へと到達するためには、準備段階があったほうがいい。準備段階がないと却って祈りの中心へと至りにくい、ということに気づかされたのでした。
 考えてみると、これは祈りばかりではありませんね。運動でも、準備体操やストレッチが必要です。これがないと、いい動きができませんし、ケガをして運動の目的に達することができないこともあります。物語やテレビや映画のドラマでも、いきなり最終回を見せられても、何にも面白くありません。また、コース料理でしたら、いきなりメインディッシュを出されたら困ってしまいます。やはり、前菜からはじまって段階を踏んでメインのお皿が来て、そのあとデザートやらコーヒーやらが来て余韻が残るのでないとおかしな感じになってしまいます。いきなりメイン、というのは、どうも気持ちがついていかないのでしょうね。しかも、メインはもちろんのことですが、そこに至る一つ一つの段階も楽しみなのです。
 これが動物ならいきなりメインだけでいいのです。目の前に餌が来たら、パクっと食べる。そうしないと生きていけないからです。しかし、人間の心と体は、どうもそういうふうにはできていないようです。人間というのは、メインのものが来るまでに準備段階がなければ、心も体もついていかないし、その準備段階の一つひとつを喜ぶことができる、そういうふうにできているようです。
 イエスさまが来られるときにも、その準備段階が必要でした。それがなければ、イエスさまは登場し損ねてしまう。あるいは、人間が受け止め損ねてしまう。そのくらい、重要な準備段階でした。旧い時代に属する洗礼者ヨハネの登場がなければ、イエスさまの登場の必然性や、イエスさまの新しさは浮き彫りにならなかったでしょう。「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」する(4節)、とはそのようなことだと思います。
 では、「備える」こと自体は、どういうことでしょうか。「備えをする」と聞くと、私自身は子どもの頃のボーイスカウトでのある体験を思い浮かべます。それは、ボーイスカウトに入りたての夏のキャンプでのことでした。キャンプといっても「ボーイ」の場合(今は知らないが)、キャンプ場では、やらないのです。何の設備もない原野を、地主さんから借りて行っていました。ですから、到着したらまずは適当な場所を見つけてカマで藪を開拓してテント・サイトを作らなくてはいけませんし、水道もないので沢まで水汲みに行かねばなりませんでした。一番キツイのが水汲みで、たとえば18リットルのポリタンクも灯油なら割と持てるものですが、これが水だと結構重いもので、この仕事は必ず新入隊員の仕事でした。
 このキャンプ生活がはじまって何日目かのこと、先輩から薪拾いに行くぞ、と言われました。ところが、すでに、水汲みなどでかなりくたくただった私はとても行く気になれません。疲れていたのと、その日の晩に使うくらいの薪はまだあったので、明日にしましょうよ、と言いました。すると先輩から「バカもん!、いつ雨が降るかわからないから、沢山集めておかないとダメだ」と怒られました。そして、薪拾いに行くことになったのです。私は「こんなに晴れてるし、雨なんか降るわけないよ…」とぶつぶつ言いながら、しぶしぶ薪を拾ったことでした。
 何時間かたって、沢山の薪を拾うことができたので、シートで作った「倉庫」の中にストックしておきました。すると、その日の夕方、突然雨がやってきたのです。しかもその雨は結局、次の日の昼すぎまで降り続いていました。もちろん、薪を大量にストックしておいたお陰で、食事の準備にまったく支障がありませんでした。晴れている時に雨のことを思うのは結構難しいもので、その体験から、自分の浅はかさを思うと同時に、「あぁ、(ボーイスカウトのモットーの)『そなえよつねに』って、こういうことだったのか…」と腑に落ちた気がしました。
 晴れている時に雨のことを想像する、というようなことは、実は信仰にも近いものがあるのではないか、と思うのです。ただ、信仰の場合は逆で、雨のあいだに、晴れのことを想像する、と、たとえられると思います。冬の間に春を思う。苦難の間に主の復活を仰ぐ―。未だ見えていないものを見ようとする。未だ来ていないものを確信する。というのが、私たちのキリスト教信仰であり、今日の主題「主を迎える備え」ということです。実は「備える」ということ自体のなかに、未だ見ぬものへの確信があるのです。「備える」ことに、すでに「信じる」は含まれているのです。
 私はここで聖餐式のなかのあの言葉を思い出します。「み子が再び来られるまでこの祭りを行います。」(祈祷書175頁)。「この祭りを行」うのは、私たちが、「み子が再び来られる」ことを信じているからなのでした。だとすれば、私たちは聖餐において、毎週、日常のなかで主をお迎えする備えをしていることに気づかされます。そこに私たちの生活が特徴づけられています。私たちの生活は、「備える」ことに彩られているのです。その意味では、日常的に、私たちは「備えて」いるのです。しかし、日常的に繰り返されることによって、それが平板なものとなっては、メインのものをメインとして受け止めることはできません。主たるものを主として受け止めるために、降臨節の一つ一つの主日を通過していくのだと思います。
 降臨節の4つの主日という、ひとつひとつのコースを踏みながら、主をお迎えする準備の段階を、私たちは、噛みしめます。そこにはすでに、私たちの確信が含まれています。主のご降誕によって与えられる贈り物のうちには、「備える」ことの喜びも与えられています。