2012年10月21日      聖霊降臨後第21主日(B年)

 

執事 ヤコブ 岩田光正

 「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが前に進み出てイエス様に願います。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」これが二人の願いでした。イエス様は言われます。「あなたがたは自分が何を願っているか、分かっていない。」
 二人の期待していた栄光とはこの世の栄光の座であり、彼らが願い求めたものは、栄冠を帯びた王様の隣に座る、例えば右大臣と左大臣といった世の支配者としての立場でした。イエス様の栄光とは十字架と復活によって明らかにされる栄光です。三度の予告にも関わらず弟子たちにはイエス様の十字架を全く理解できませんでした。イエス様の飲む杯を飲み、イエス様の受ける洗礼を受けることが「できます」と答えた二人。確かに彼らは後の栄光のためにどのような苦難も耐えられますと心に誓ったと思います、自分たちの力を信じていました。しかし彼らにはその向こう側の十字架については考えられませんでした。
 このように二人の弟子たちはイエス様のことを全く理解できませんでした、しかし私たちはこの弟子たちのことを非難する資格があるでしょうか。私たちもイエス様に祈る時、同じように十字架を伴わない、この世的な栄光を願い求めていることがあるのではないでしょうか?そして、イエス様から問い返されたとき、安易に「できます」と答えていることがないでしょうか?
 ところで、イエス様に従い通し、その左右に座るとはある意味、十字架に架けられたイエス様の左右で十字架に架けられたあの二人の盗賊のように「十字架に架けられる」ことかも知れません。この世の栄光とは正反対の、いやそれどころか世間的には、敗北としか思われないような惨めな苦難を背負うことも時にあるかも知れないからです。
 イエス様は十字架によって真に「偉い」ことの意味を私たちに教えられました。イエス様に従い、自分の十字架を負うことは決してこの世的に輝かしい栄光ではありません。むしろ正反対のことが多いと思います。私たちは苦難の十字架を避けて自分の都合の良い様にイエス様にお願いをしてしまう弱い存在です。けれどもこのような弱い私たちのためにこそ、イエス様は一番「偉い」お方であるにも関わらず、すべての人の僕として、仕えられるべきお方であるにも関わらずに、仕えるために神様のもとから来られました。そして多くの人の身代金としてご自分の命を献げられました。それが神様の御心だったからです。
 だからこそ私たちはイエス様が共におられるなら、「できます」と答えたいものです。何故なら、たとえ私たちが身に余るような十字架を背負うような時にも、そこにはいつもイエス様が隣におられ、イエス様ご自身が逆に「僕」となって、私たちに「仕え」、励ましてくださるからです。私たちは日々このことを心に留め、イエス様に倣い、真の栄光のために歩んで参りたいものです。