司祭 ヨハネ 石塚秀司
「できない」から「できる」へ【マルコによる福音書10章17−27節】
かつて幼稚園の運動会でこんな場面に感動したことがあります。動きが遅くてなかなか集団の動きについていけない女の子がいました。ダンス競技の時です。やはりその子はついて行けずに動作が遅れがちでした。ところが、すぐ隣の女の子がついていけない子にかかわって教えてあげている姿が目に入ってきました。自分も精一杯のはずなのに、今はこれだよ、こうするんだよという感じで、その子なりにしかもあまり目立つこともなく、しかし一生懸命かかわっていました。この二人は確か年中さんだったと思います。普段の保育の中での先生の指導もあったからでしょうが、その子たちの姿を見ていて「美しい」と小さな感動を覚えました。二人の人生にとっても貴重な体験だと思います。
さて、本日読まれる福音書は、マルコによる福音書10章17節以下ですが、一人の金持ちの男が登場してきます。イエス様のもとに走り寄って来て、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねます。それに対して、モーセの十戒の掟は知っているはずだとイエス様が言うと、「殺してはいけない。盗んではいけない。姦淫してはいけない。偽証してはいけない。奪い取ってはいけない。父母を敬いなさい。そういうことは子どもの時からみんな守っている。」と自信を持って言います。しかし、そのように言う彼の中に、主イエスは一つの肝心なことが抜けていることを見抜きます。たくさんの財産を持ち、それを自分のことばかりにどうも使っていたようです。
この福音書の箇所についてこのような指摘があります。この金持ちの男が語る言葉の主語はすべて「私」であり、彼の頭には「私」ばっかりで隣人が入っていない。私は殺していない。私は盗んでいない。私は姦淫していない。私はそれらの掟を守っている。私は正しい。私は永遠の命を得たい。何のために、私の幸せのために。彼の思考の中には人に対する思いが欠落していたのかもしれません。常に自分の目標を目指して走り続け、自己実現のために真面目に努力をし、その達成感に生きる喜びを感じる。これが彼の人生観だったのかもしれません。何か自分のことを言われているような気もしてきますが・・・・。そして彼はここでも、それまでと変わらず同じところに立って永遠の命を手に入れようとしているように思います。何か満たされないものを感じていたのでしょうか。
主イエスはその金持ちの男を見つめ、慈しんで語りかけます。「あなたに欠けているものが一つある。・・・・」「慈しんで」とは愛の眼差しをもってということでしょう。つまり、欠けているものがある彼を、できないでいることを裁くのではなくむしろ愛の眼差しを注いでいきます。そして、今まで彼がひたすら求めて生きてきたのとは異なる生きる道を指し示し、そこに導こうとされます。それは富や自分に捕われた生き方ではなく、神様と人とのつながりの中に豊かさと喜びを求めることでした。神様のみ心と恵みに委ねて生かされていく信仰の道でした。しかし彼はそれを受け入れることができなかった。今までこだわってきた人生観から離れることができなかったからだと思います。「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言うぐらいそれは難しいことなのです。
「人間にできることではないが、神にはできる。」27節のみ言葉です。私たちは、金持ちの男を見つめ慈しんで語りかける主イエスのお姿に、天に富を積む生き方を見ることができるのではないでしょうか。十字架の苦しみに身を渡され耐え忍ばれたのは何のためであったのでしょうか。富への執着、優越感への執着、自分への執着からなかなか自由になれない頑なな心で生きている私たち人間のためでした。神様はイエス・キリストによって、み心に適った道を具体的にお示しくださり、そこに生きることができるようにと命の恵みを注いでくださるつながりを創ってくださいました。つまり、人間の努力だけでは「できない」を、イエス・キリストによって「できる」恵みを与えてくださったのです。もしかしたら、この金持ちの男も、主の十字架の死と復活後、天に富を積む生き方へと変えられていったかもしれません。あのパウロの回心のように。