司祭 ミカエル 藤原健久
自分の中の十字架【マルコ9:30−37】
子どもは無条件に愛されるべき存在である。けれどもなぜ?イエス様はその理由を、信仰的に教えてくださる。「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私ではなく、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」子どもを受け入れるのは、イエス様を、神様を受け入れること。ここからもう一歩踏み込んで、このように言えないだろうか。「神様を受け入れる者は、神様に造られた自分を受け入れるのである。」子どもを受け入れる時、私たちは自分自身を受け入れる。子どものように、弱く、未熟で、無力な自分を、そして、素直で、純粋で、可愛い自分を受け入れるのである。
私たちには、それぞれ自分の十字架がある。自分の歩む道の前にある困難、自分の罪深さ。回避したいこれらを直視し受け入れるとき、新たな希望の道が開けるように思う。私たちの社会には、様々な課題、問題がある。これらに関わるとき重要なのは、「他人事にしない」ということである。社会にある十字架には、自分の十字架が深く関わり、またその原因ともなっている。自分の中の十字架を見つめ、社会を歩む十字架のイエス様に従いたい。