執事 アントニオ 出口 崇
人を見る目
「人を見る目」がある、ない という言葉をたまに聞きます。
会社などで人を採用、配置したりする仕事をしている人には適材適所というように「人を見る目」が必要とされます。
本来は、コミュニケーションをしっかりとって「その人そのものを正しく知る」ということだそうですが、様々な目的を持った活動を円滑に進めていくために、その立場にある人たちは「その目」をもって判断していきます。
私自身は「人を見る目」がまったくありません。よく分からないので「自分は人を見る目がある」と言う人は信用しないようにしています。
イエス様はどうだったでしょう、「その人そのものを正しく知る」ということでは、間違いなくすべてのことをご存知な方でしたが、ご自身の宣教活動を効果的に行うために有益な人材を選んでいたわけではありません。
「なんであんな人たちと一緒にいるの、見る目ないなー」と周りから言われていたかもしれませんし、最後にイエス様を見捨てて逃げてしまうような弟子たちでしたので、「見る目がない」と言われても仕方がないのかもしれません。
そんなイエス様が逆に、人びとの「見る目」を確認します。洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者、様々な周囲の評判を聞いた後、弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と直接、イエス様と共に過ごしている弟子たちの「見る目」を問いただします。
「あなたはメシアです」というペテロの答えは間違いではありませんでした。しかし、「私にとって」という、関わった責任を持っての答えではなかったのかもしれません。
自分ならなんて答えるだろう。どう言えば正解なのかと考えてしまいます。
しかし私たちの信仰告白は「今、私はこう思う」ということの繰り返しなのではないでしょうか。正解があるわけではなく(教理的には「間違い」はあるかもしれません)、その時々の信仰を抱きながら祈りをささげる。
今日のイエス様の問いは私たち一人ひとりに向けられており、その答えを待っておられます。
復活したイエス様に、もしペテロが同じ事を聞かれていたら、違う思いをもって答えたのではないでしょうか。