執事 マタイ 出口 創
主は委ねられる 大きな務め
「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」
【ヤコブの手紙1:19】
昔、会社勤めをしていた頃、社長、専務に次いで平社員の私が、社内第3位の『瞬間湯沸かし器』と言われていました。かなり短気な性分ですので、スイッチを押せばすぐに火がついてお湯が出るようだという意味です。今でも『瞬間湯沸かし器』としての性能は、昔と変わっていないかもしれません。
「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」。これを実践できていると、自他共に認められる人は、確かに道徳的にとても素晴らしいと思います。でも、なぜ聖書にこのように書かれているのでしょうか。聖書は道徳の教科書でもなければ、イエス様は人類史上最高の道徳的体現者(つまり最高の人間)だと聖書は言っているのではありません。
『トマスによるイエスの幼児物語』という短編集があります(新井献編『新約聖書外典』講談社文芸文庫に収蔵)。これは2世紀終わり頃に書かれたと考えられている、イエス様の幼児期を伝説的に描いた物語です。もちろん新約聖書に載っていません。その中に、幼いイエスくんが道で、ある子供に肩を突かれた時に怒って、「お前はもう歩けない!」と宣言するとその子供は死んでしまったとか、イエスくんの言葉がすべて成就してしまい、イエスくんはとても悲しむというような物語が綴られています。
このイエスくんのように、もしも、私たちの発する言葉が『神の言葉』とされて、その通り成就するとしたら、どう思いますか。逆に言うと、私たちを全面的に信頼して、神様が私たちに『神の言葉』を全面的に委ねているとしたら。しかも私たちが、神様の信頼に全く応えられない存在であるということを、神様は百も承知の上でのことだとしたら。
「好き勝手に何も喋れない」と、恐ろしさや窮屈さを感じるでしょうか。あるいは「ひとりでも多くの人が、不十分であってもたくさんの回数、『神の祝福の言葉』を喋れば良い」と感じるでしょうか。
神様は聖霊を通して、今も私たちに『神の言葉』を自由に語るように委ねておられるのではないでしょうか。ひとりでも多くの人が、たくさんの回数、『神の祝福の言葉』を喋るよう、私たちを招き、また委ねてくださっていると思います。だからこそ、「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」と、ヤコブの手紙は記しているのではないでしょうか。聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いというのは、まさに他ならぬ神様ご自身の気性のように思います。