執事 ヨハネ 荒木太一
「中から、つまり人間の心から」【マルコ7:20】
礼拝前に、 黙想(のフリ?)をしていました。すると息子が近づいて来て「パパ、なにおもってんの?」と聞くのです。不意打ちを食らい「んんん、一体何を思っていたのか」となりました。
心の伴わない儀式や外面に対し、イエスは心の内奥での純粋さを訴えます。聖書での「心」は現代心理学の「感情や思い」より、もっと広く深く内なるもので、その人の全人格的な意味や決断の源です。その意味で信仰は、感情や気分よりもっと「内なる」ものです。
心とは神との関係における自分自身です。 主イエスは「神との関係は自分の最も内側にある。そこに帰れ、そこで純粋に、絶対的に、神に頼れ、神に従え」と呼びかけるようです。
しかし私の心は、ほっておくと色んな悪い思いを放出し、自分を汚し、神から遠ざけます。
イエスはそんな心の悪を良く知っています。だからこそ、自ら肉なる人となり、最も邪悪な心によって殺されました。しかし復活し、私たちの存在の奥の奥から新しい命をはじめられたのです。人間の心の一番内側の奥底から、人の心を超越した神の命が輝き始めます。
どうか心の思いや感情をさらに内側に超えたところで、人が神に救われますように。