司祭 マーク シュタール
今日のみ言葉を読み、私は短い一文に衝撃を受けた。啓発的な分析をする時にはあまりないことである。パウロはエフェソの人々に「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。」と書いている。それは、もっと有名な、聖霊に満たされた者として、神に似せて生きなければいけないという教えよりも前に書かれている。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。」という言葉は、二つの大切なことを思い起こさせてくれる。一つは、怒ることは当然の感情であるということ。それは、人として自然な感情で、ある意味、積極的な行いですらある。二つめは、怒りを感じたら、それをすぐに捨て去るべきであるということである。パウロは、「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」と書いている。ということは、怒りを長く抱き続ける事は、私達自身、よくない状態に陥り、より神さまから遠ざかるということだ。
申命記では、砂漠での試練を通して、神様は人々が完全に神様に頼らざるを得ないことを示そうとした。そこは、神様自身が怒りを示された場所でもある。時に神様の与えられた試練は厳しいものだったが、約束された土地に至るまで行き延びた彼らの厳しい行程には、神様の揺るぎない愛と導きが一貫してあった。人々は時に迷い、疑ったが、神様は一歩たりとも離れることはなかった。
旧約聖書が神様の怒りが人々をどう導くかを示す一方、福音書は、怒りが去った後に日が登り、新しい一日を迎える様子を示している。イエスは、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」と言っている。イエスは、命の豊かさ、新しく素晴らしい命、神様と親しく交わる命について説いている。自分が選ぶ道が不適切かも知れないなどと恐れることはないのである。聖霊の力によって、私達は、一日一日の歩みを信頼と尊敬を持って神様とともに歩めばいいだけである。怒りが湧いたなら、天から下るパンを求めたらいい。それぞれの砂漠において、私達が乗り切ろうともがく時、イエスが約束された新しいマナがふんだんに与えられるであろう。怒りを解き放ち(それは自らがするべきことで他者によってされることではない)、イエスが差し出すパンを頂く時、自分が置かれている砂漠はパラダイスのように変えられるはずだ。もはや、飢えも乾きもない。