司祭 クレメント 大岡 創
「わたしが命のパンである」【ヨハネ6:24−35】
今日の福音書は「五千人の養い」に続き「湖の上を歩かれる」という奇跡を見た後、人々はイエスさまをどのように受け止めていたかを伝えています。人々は預言者と思われていたイエスさまと弟子たちを追っかけてきました。この人々にイエスさまは「あなたがたはわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)と言われます。冷たい皮肉のようにも聞こえます。人々はイエスさまの示された「しるし」の意味を悟ることができませんでした。わたしたちも、相手に自分の思いを伝えようとする時、さまざまな具体的で目に見える「しるし」を用います。友達や仲間たちへプレゼントや差し入れをするのも、自分の気持ちを表わす一つの「しるし」であって、必ず何らかのメッセージが込められているものです。でも気持ちが頑なな時には通じないこともあるかもしれません。
イエスさまは彼らにしるしに目を向けるように「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)と言われました。
天からのパンは確かに人々の飢えを満たしましたが、それ以上にいつも彼らと共におられることを示された神の慈しみと守りのしるしであったことを思い起させようとされたのです。確かにパンを食べて満足することも大事です。誰しも自分の人生を自分で支えていかねばなりません。しかし人間はパンだけで生きるものではないこともわたしたちは知っています。「モノが豊かになってもどこか精神的に虚しく感じる人生は避けたい・・・」と多くの人が思っていることからも明らかです。
「わたしが命のパンである」(35節)とイエスさまが語られて、初めて人々は自分たちの生き方を導き支えてくださる方であることを悟ることができたというのです。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)
ここで「来る」と「信じる」とは同じ意味で用いられています。「信じる」とは単に心の問題ではなく、生活や生き方に関わることを示しています。「信仰とはキリストをいわば遠くから望み見ることではなく、キリストをかき抱き、わたしたちのものにして、自分のうちに住まわせるようとするもの」(カルヴァン)とも言われます。このことから、わたしたちにとって一番難しいのは神さまに身を開くことによって、自分の考えや思いを軌道修正していくことかもしれません。イエスさまの呼びかけに、自分なりに歩きだしていこうとすることが何よりも大切なことではないでしょうか。
和歌山の教会では毎月一回「羊の群れの会」と称して「聖書を学ぶ会」に毎回7〜8名が集まり、12年続けてきました。一人では読破しにくい「創世記」や「イザヤ書」も皆で数年かけて読み継いできました。思えば牧師の単なる解説講座であれば続かなかったかもしれません。「自分のために読む姿勢」を大切にしながら、予備知識がなくとも「み言葉」に触れ、物の考え方や生き方を見つめ直す手掛かりを「皆」で探り当てていく時間だったからこそ持続できているのかもしれません。そんな機会が与えられていることを感謝しています。また、そんな神さまからの恵みを拒むことなくこれからも素直に受け入れていくことができるようにと思います。それは努力し、苦難を乗り越え、得ようとするものではなく、神さまからの恵みとして、与えられ、備えられているのが「命のパン」ではないでしょうか。