司祭 アグネス 三浦恵子
「人々はイエスにつまずいた」【マルコによる福音書第6章1−6節】
故郷のナザレの会堂で、イエスさまは教えた時でした。マルコ福音書には、イエスさまは教えた内容は示されていませんが、平行箇所のルカ福音書には、イザヤ書(58章6節と61章1から2節)からの引用された内容が次のように記されています。
主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。
会堂にいた多く人々がそれを聞いて驚いたとあります。驚いた原因は、その教えの内容が素晴らしく感動を与えたからです。さらに、その教えを語ったのが人々と一緒に過ごした大工の子イエスであったということだと記されています。みなを感動させた人は大工であり、あのマリアの息子で兄弟姉妹のことも知っている。ここで我々と一緒に住んでいる。そのイエスについて何もかも知っているつもりだったので、人々はそのイエスにつまずいたのです。特別な家柄でもないイエスが、素晴らし教えを伝えたことが腑に落ちなかったのでしょう。
イエスの権威ある教えと、これまでの業がどこから来るのかということを聞き入れていれば、イエスがどなたかということに気付くこともできたかもしれません。驚かされるような教えの内容によって、天の神さまに心を向けることもできたでしょう。
教会の中で、一人一人は神さまに繋がっている私たちであるけれど、人間関係が濃い所では、人はその人を理解することができなくなることを教えられます。さらに、これまでの慣習や伝統に囚われていると、その人を偏って見ることもあるようです。つまずきとは、理解しているとか知っていると思っていた自分が壊される体験であり、新しい自分が創られる体験と言えるでしょう。捕らわれている人を解放し、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人が自由を与えられるように、神さまとの強い結びつきを求めたいと思います。神さまの霊的な知恵と力は、この世的な立場を超えて、さらに男女の壁も越えて与えられることを信じたいと思います。