司祭 ヨハネ 古賀久幸
風に吹かれて
イエスはお答えになった。「風は思いのままに吹く、あなたはその音を聞いてもそれがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである」(ヨハネによる福音書3:8)
先日、車のFMラジオから昔懐かしいボブ・ディランの「風に吹かれて」が流れてきました。「どれだけの道を歩けば、一人前と認められるのか・・どれだけの砲弾が飛び交えば殺し合いをやめるのか・・どれだけの耳があれば人の叫びを聞けると言うのか・・答えは・・吹き抜ける風の中さ」。60年代に世界中で歌われ、若い人でもメロディを聞けばああこの曲かとおもうでしょう。不条理に満ちているこの世界にまた自分の人生に対して人は問いを持ちます。正解は必ずあると信じ、必死になって答えを探し続けたり、あるときは自分の出した答えが絶対に正しいと固執したりもします。しかし、昔は正しかったことが今は間違いであることも少なくありませんし、あまりにまっとうな答えにはどこか偽善の香りが漂うと感じもします。いったい、なにが正しくてなにが間違っているのでしょうか。誰がそれを判断できるのでしょうか。そもそも人生や世の中に正解と言うものはあるのでしょうか。ディランの問いかけはいまだに色褪せません。
今日の福音書(ヨハネによる福音書3:1−16)には人生の苦悩と問いを携えてイエス様を訪ねてきたニコデモの人となりが紹介されています。戒律を守ることに心血を注ぐまじめなユダヤ教徒。秀でた頭脳と責任感は人々から議員に押されるほどであり、しかも期待にたがわず重責を果たしている。一方、神への探求心をもつが故に心の奥にはおのれの人生への深い問いと悩みを抱えている。そんな彼の悩みに対して本当に応えてくれる人は立派なユダヤ教の知恵者ではなく、異端視されていた自由人イエス様ではないか。自分の直感を信じてニコデモは人目をはばかりながらもイエス様を訪ねました。さて、ニコデモが自分の問いをぶつける前にイエス様は彼の深奥を見透かしたように口火を切られます。
イエス:「風に吹かれてみなよ。」
ニコデモ:「はあっ?」
イエス:「今のきみのまんまで一生懸命考えたって神様がこの世でなさっていることは見えはしないよ。
神様が贈ってくださっている風が吹いているから。思い切ってその風に身をまかせなよ。
どこへ行くか知らないよ。でも、何かが見えてくるはずだ。新しく生まれるっていうことだよ。」
ニコデモ:「そんなことを言われても・・」
イエス:「わたしは現実におこる話しをしているんだよ。わたしの父さんはわたしのところにこうして来る
人が永遠の命をもつように。この世を愛しておられるからね」
聖書を思いっきり自分なりに訳しましたが、はたしてニコデモはイエス様のことばの深い意味を理解したのでしょうか。それとも失望したのでしょうか。残念ながらニコデモの反応はここには書かれていません。しかし、後にユダヤ人指導者たちの間でイエス様に対し憎悪の感情が渦巻いた時、ただ一人ニコデモだけがイエス様の弁護に回りました。さらにイエス様のご遺体が十字架から降ろされるときニコデモはご遺体に塗る香料を携えて現場に姿を現しました。これはイエス様を十字架に追いやったユダヤ人指導者のひとりであったニコデモの立場からするとずいぶん大胆な行動のはずです。さりげなくその後のニコデモの行動を書き遺して後世に何かを伝えようとしている聖書は実に味わい深い書物でもあります。あの夜、イエス様と出会ったときからニコデモの心の中に何かしらの風が吹きつづけていたことを示唆しているのです。彼は新しく生まれ変わっていました。
思い悩んだ時、行き詰った時は、神様から吹いてくる風に吹かれてみましょう。踏ん張っている足の力を緩めたら木の葉のように舞いあがれるかもしれません。地上からは見ることができなかった景色がきっとみえるはずです。