2012年4月22日      復活節第3主日(B年)

 

司祭 ヨハネ 石塚秀司

復活の主は信じる者の隅の親石
【使徒言行録4:5−12 ルカによる福音書24章36b−48節】

 建物を建てる時にはしっかりとした土台、基礎が不可欠であるように、私たちの人生においてもそうです。でもふと気づいてみたら、土台のことなんか意識することもなくただ流されるままに人生を歩んでいることに気づかされることが少なくありません。きょうの使徒書でペトロは、私たちの人生の隅の親石となってくださる方がおられる。それは、人々に捨てられ十字架に死なれたイエス・キリストであると言っています。
 私が日々思い起こし大切にしている愛唱聖句のひとつに、フィリピの信徒への手紙3章16節のみ言葉があります。「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」。これは、聖書を読んでいて何も感じることなくその前を通り過ぎてしまうようなみ言葉かもしれませんが、ある時このみ言葉に出会って、一見どうしようもないようにしか思えなかった自分の人生を、否定することなく、「それがお前の歩んできた人生の今の到達点なのだ」と肯定的に受け止めてくれる眼差しを強く感じて、このみ言葉の前からしばらく動くことができなかったことがあります。それ以来、何かあるごとにこのみ言葉を思い起こすようになりました。
 前のものに全身を向けつつ・・・・希望、目標を目指してひたすら走る。しかし同時に「私たちは到達したところに基づいて進むべきです」とパウロは言います。このことは何を言っているのでしょうか。私たちは希望や目標に向かって生きていることが少なくありません。でも、ふとある時それとはあまりにもかけ離れた現実に愕然としてしまうことがあります。そして自分を責めたり人を責めたりするのです。時にはそれが励みになっていくこともあるでしょうが、これしかできない、ここまでしかできなかった自分や家族、あるいは人をダメな人間と決め付けて嘆いていることがいかに多いことでしょうか。しかしパウロは「到達したところに基づいて進みなさい」と言います。これは目指していた目標からの評価ではなく今ある現実をひとつの到達点として事実として受け入れるべきことを言っていると思います。現実を否定するのでもなくただ嘆くのでもなく、それを受け入れてそこから新たに歩み出すのです。ああ、本当にそれができたらどんなに心が平和になることか。
 4月22日、B年の復活節第3主日の福音書はルカによる福音書24章36節以下が読まれます。先週に引き続いて、復活の主がお弟子さんたちのところに現れた場面が描かれていますが、今日の福音書では、さらに、それが亡霊ではなく事実であることを、戸惑うお弟子さんたちに何とか分からせようとするイエス様の働きかけが強調されています。皆さん想像力を働かせてみてください。集まっていた11人のお弟子さんたちはどんな思いだったのでしょうか。37節で、イエス様が突然現れたとき彼らは「恐れおののいた」とあります。彼らはまだ「疑って」いたのです。41節では「恐れ」が「喜び」に変わっている様子が書かれています。さらに容易に想像できるのは、真剣に信じていたもの心から愛していたものを失った時の虚脱感というか失意のどん底に陥っていたことが容易に想像できます。さらに、自分たちにも迫害の手が迫ってくるかもしれないという恐怖感や復活という知らせを聞いての混乱もあったでしょう。あるいは、こういうものが入り混じった複雑な心境にお弟子さんたちは陥っていたのかもしれません。そして心を閉ざしていた。
 そういう彼らの中に現れてイエス様は開口一番何と言われたでしょうか。「お前たちはわたしを裏切った。とんでもないやつらだ」と責めたでしょうか。弟子としてあるべき姿でないことを裁いたでしょうか。違います。現れるなりにこう言われたのです。「あなたがたに平和があるように」。これは、今ある状況を受け入れ、恐れや失意、混乱から解放されるようにとの語りかけであると理解することができます。そして45節にあるように「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開かせるのです。私たちはここに何を見るか。罪の赦しと悔い改めへの導きではないでしょうか。信じられないでいるものたちを受け入れ信じるものへと働きかけてくださる聖なるドラマではないでしょうか。ここに私どもキリスト教会の原点があります。そのようにして、復活の主は私たちの隅の親石となってくださるのです。この一週間も私たちはどれだけみ心からかけ離れた生活をしてきたことでしょうか。でも、その私どもを受け止め、隅の親石となって、今、到達したところに基づいて新たな生へと導いてくださるのです。この喜びと感謝を私たちは礼拝でおささげしていきます。